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第5回水俣病問題に係る懇談会
会議録


  1. 日時:平成17年10月25日(火)13:00~15:00
  2. 場所:環境省第1会議室

午後1時00分 開会

○柴垣企画課長 それでは、定刻を過ぎておりますので、ただいまから水俣病問題に係る懇談会の第5回を開催させていただきます。本日はご多忙の中お集まりいただきましてありがとうございます。
 柳田委員はちょっと遅れておりますけれども、出席というご回答をいただいておりますので、9名の委員の皆様にお集まりいただけるということでございます。ありがとうございます。
 また、小池環境大臣につきましては、衆議院本会議が1時からございまして、30分ほど遅れて出席される予定でございます。その後また衆議院環境委員会がございまして、2時過ぎに退席されます。
 また、滝澤環境保健部長につきましても、大臣に同行しておりますので、同じく30分ほど遅れて出席の予定でございます。
 それでは、まず資料の確認をさせていただきます。「議事次第」の配布資料というところに、資料1から資料3まで、特に資料2、資料3はA3の大部のものとなっております。
 それから、委員のみに配布させていただいております参考資料は1から5までございますが、参考資料1から3がA3のものでして、資料2の関連の資料でございます。それから、参考資料4が前回の懇談会の議事録でございまして、あらかじめ先生方にご確認いただいておりますけれども、きょう懇談会終了後にホームページにアップする予定でございますので、何かございましたら、終了までにお申しつけいただければ訂正ができますので、よろしくお願いします。参考資料5は、前回ご議論いただきました今後のスケジュール及び内容で、日程を変更したものでございます。
 資料は以上でございます。
 それでは、以降の議事進行を有馬座長にお願いいたします。

○有馬座長 それでは、議事進行に移らせていただきます。
 前回、私の都合によってこの懇談会が休会になりましたことをおわび申し上げておきます。
 まず初めに、本日の懇談会につきまして、非公開とする必要があるかないかということでございますけれども、必要がないと判断いたしますので、原則どおり公開にいたしたいと思いますが、いかがでしょうか。

(「異議なし」の声あり)

○有馬座長 ありがとうございます。
 それでは、本日の懇談会は公開で行い、議事録は出席された各委員の確認、了承をいただいた上、環境省ホームページに掲載し、公開させていただきたいと思います。
 本日の議事進行でございますが、まず議題について申し上げます。前回の懇談会でご議論いただきました「今後のスケジュール及び内容」に沿って、「議事次第」のとおり「昭和34年前後を中心とした責任問題について」をまずご議論いただきたいと思います。
 では、その議事に入ります前に、前回の懇談会において発言があった内容について、今後の議論の方向にかかわるようなご発言もございましたので、欠席された方へのご紹介も含め、簡単に事務局から説明していただきます。

○柴垣企画課長 それでは、資料1、「第4回において発言があった主な事項」ということでございます。
 まず第3回懇談会の現地開催について、現地に行かれた委員のご発言、それから、それをお聞きになった行かれなかった委員の発言ということでまとめさせていただいております。簡単にかいつまんで紹介させていただきます。
 まず、医療のみならず、生活や仕事、高齢者の介護など被害の実態を幅広くとらえて救済すべきではないか。
 それから、それに関連しまして、生活全体が受けた被害に対して、何をどう支援するかということがなされていなかったのではないか。
 それから、患者の方々が微妙に対立し合っているのをどうしていくのか。
 また、被害者のカテゴリーがいろいろあって、救済や補償の体系が混乱していることが、現地の差別などの原因ではないか。
 また、被害者に幾つもの団体があって、その間で軋轢が生じていたり、解決のきっかけになるはずの最高裁判決がもめごとのきっかけになっているようなことが問題である。
 さらには、被害者や市民の間の軋轢や感情の違いなどを克服するには教育が重要ではないかというような意見がございました。
 2番目に、事務局から被害と救済に関する説明をさせていただきまして、それに対して幾つかのご意見を頂いております。
 まず、救済の対象や症状を狭く限定して、判決などのたびに屋上屋を重ねて対応してきたことが、複雑な救済のあり方の成り立ちになっているのではないか。
 また、初期においてハンターラッセル症候群を典型例として、それを不全型に広げていくような形になったことが問題の発端ではないか。
 また、微量汚染の問題と水俣病の現状をどう考えたらいいのか。
 裏面にいっていただきまして、救済のための制度などもこれまでは一応の合理性があるということであったけれども、最高裁判決によって国の責任ということが前提になった段階で、全体がどうあるべきかということを今一度考えていく必要があるのではないか。
 また、救済問題の混乱の根底には、緩やかな基準を厳しくした、それによって一症候のみの人たちが切り捨てられるというような疑念を行政の不手際として抱かせたということがあるのではないか。
 また、この救済問題についての検討が平成3年の中公審答申以来本格的になされていないということで、改めて今後の対策の根拠をかためるという意味での議論が必要ではないかといった意見がございました。
 それから、本日、参考資料5としてお配りしておりますけれども、今後のスケジュール及び内容についてご説明して、それに対して今後の議論の方向ということで幾つか重要な意見をいただいております。
 地域社会の振興対策なども重要であるけれども、より一般性のある問題として行政に携わる役人や学者などの問題意識を制度的・組織的にコントロールするようなあり方を、より一般的な問題として提言すべきではないか。
 また、市民がどのように行動すべきかという教訓も重要で、市民、行政、科学者の三者の役割分担ということも提言に含めてはどうか。
 また、水俣病の政治、人権、福祉のあり方など広範な教訓を懇談会として引き出していくべきではないか。
 また、この懇談会は期限が区切られているということで、次に何をすべきかということも提言していくべきではないか。
 さらに、二度とこういった問題を起こさないためには、何が起こったのかといった原因を詰めていくことが重要であるといったような発言がございました。
 以上でございます。

○有馬座長 どうもありがとうございます。
 前回ご発言いただきました被害と救済をめぐる議論につきましては、次回の懇談会の丸山委員のご発言を踏まえて、その際にご議論いただければと思います。
 それでは、本日の議題に入ります。昭和34年前後の行政をはじめ社会全体で水俣病の蓋閉めをした時点において、行政や科学者などの間で何が考えられて、どのような動きがあったかにいて、当事者から実際にお話を聞ければよいのですが、そのかわりに関西訴訟の証人尋問における発言等をもとに事務局に資料を作成してもらっております。委員の皆様方にも事前に送らせていただき、目を通していただけたかと思います。
 まず、事務局から簡潔にこれを説明してください。

○柴垣企画課長 それでは、資料2がメインの資料でございます。その資料2の中で関係する主体が行政とか学者、また会議ということで出てまいりますが、その解説が資料3でございます。資料2をつくります際に前提としました関西訴訟の証人尋問調書の抜粋が参考資料1でございます。また、適宜参照いただければということで、当時の関連の新聞記事、関連データということで、参考資料2と3を用意させていただいておりますので、よろしくお願いいたします。
 それでは、資料2の「昭和34年前後を中心とした責任問題について」に沿って簡単にご説明をさせていただきます。これは、左側に事実の経緯、右側にその事実に関連する裁判での関係者の証言ということで構成しております。
 事実の中で注目していただきたいと思うのは、33年9月にチッソが工場の排水を従来の百間港から八幡プールを経て水俣川河口付近へ変更している。それに伴って、翌年の34年の3月ぐらいから河口付近、もしくはそれより北側の地域で水俣病が新たに出てくる。
 それにつきましては、右側の証言のところで、当時の熊本大学の学長で食品衛生調査会の水俣食中毒特別部会の部会長をしていた方の「漁協からの抗議があって、チッソが排水口を変えた。また、変えることによって、今まで患者が出ていなかった方面から患者が出るようになったということから、工場の排水が原因ではないかという疑いを持ち始めた」というような証言がございます。
 それに対して、チッソは34年の7月に工場のアセトアルデヒド工程の排水を餌にかけて猫に食べさせるという実験を開始して、10月ごろにはその猫が水俣病と同様の症状を発症するということで、この段階で自分の工場が病気の原因ではないかということを、チッソとしてはつかんでいたのではないかということでございます。
 そういう中で、行政として、また研究者として、同じ34年の7月に熊本大学が有機水銀中毒説を発表。また、先ほどの食品衛生調査会の食中毒部会が34年1月に設置されて、熊本大学の研究班を中心に食品衛生調査会の部会での調査研究が進められていると。
 その調査研究の背景に、1枚目の左の一番下でございますけれども、厚生省の公衆衛生局長が通産省の軽工業局長に、この軽工業局というのはチッソを直接監督する立場にあるところでございますが、そこに「魚介類の有毒物質はおおむね有機水銀であると考えられる。昨年9月の新排水口の設置以降その方面に患者が発生していることを考えると、工場排水に対する最も適切な措置が必要だ」というような要請をしております。
 この間、通産省としては、右側の下から3行目、[5]-1の部分でございますけれども、当時、製紙工場に対してはかなり強い勧告で排水を止めるということをやっていたわけですが、チッソに対しては当時どういう考えだったのかということを当時の軽工業局長が問いただされて、まずは同類の工場に対してチッソの占めた割合が違うと。つまり需要業者側に対する影響の大きさが違う。また、アセトアルデヒドの重要性、日本経済の今後の発展にとってのウェイトが違うということを言っております。
 右側の一番上にデータを示しておりますけれども、アセトアルデヒドの生産と、それを原料にしてつくっていたオクタノールという塩化ビニールの可塑剤を、プラスチックを有効に使っていくための重要な物質として、当時はアセトアルデヒドからつくっていたわけですけれども、オクタノールの国内生産の85%をチッソが占めていたということで、当時のチッソのアセトアルデヒドの生産は止められないという通産省の産業政策上の意図と言いますか、強い意思がこの証言の中に出ているというふうに考えます。
 1枚めくっていただきまして、行政の中での議論が10月から11月の初めにかけて行われております。2ページの左側の4つ目に、厚生省からの要請に対して通産省から厚生省への答えがございます。有毒物質が有機水銀化合物と考えるには、なお多くの疑点がある。水俣病の原因をチッソの水俣工場からの排水に帰せしめることはできないという、かなり強気な言い方になっております。
 その根拠として、右側に幾つか証言を拾っておりますけれども、当時、チッソからは、無機水銀を触媒として使っていて、無機水銀の排出はあるが、病気はその症状から有機水銀の中毒と考えられるわけですけれども、その無機から有機への転換の機序がわからないと。熊本大学の方は、工場の中の排水なり工場の中を調べることができないということで、一つの仮説として魚の中での有機化みたいなことも言っておりますけれども、そこは、当時そういったことはあり得ないのではないかという東京工業大学教授の見解なども引っ張りながら、通産省が反論しております。
 同じ11月の11日に関係省庁会議が設けられまして、そこに食品衛生調査会の中毒部会の部会長である熊大の学長も出席し、また、今言いました東京工業大学の教授のレポートも配布され、また通産省の局長も出て、有機水銀説もしくは工場が原因であるということに対する東京工業大学の教授の反論とか、通産省側の反論があって、右側の一番下の証言ですけれども、その会議を主催した厚生省の食品衛生課長も「何か全然まとまらない、言いたい放題の会議だった」という、他人事のような証言をしております。
 当初、厚生省は熊大の研究班と一緒になって、また、食品衛生調査会の食中毒部会での議論を踏まえて、原因が工場にあるのではないかということで、10月31日に、1ページの一番下の通産省への要請を出しております。この段階では、政府内でのいろいろなやりとり、調整があったと思いますけれども、政府としては若干腰が引けた形になっていて、それが、3ページの冒頭の11月12日の食品衛生調査会の食中毒部会の答申では、「水俣病の原因はある種の有機水銀である」ということは言っておりますけれども、その発生源については何ら言及していないというところでとどまっているということでございます。
 通産省として、チッソのアセトアルデヒドの生産は止められない、今後の化学工業の発展からみてそれは避けたいということも証言の中にあり、それを学者や各省間での議論の中で追求して、答申ということでは原因物質の解明まででとどめて、その原因物質の発生源については言及しないということで、政府としての対応はここで決まったということでございます。
 それに対して、食品衛生調査会の食中毒部会の部会長である熊本大学の学長は、「次のステップとして工場の排水を採取して、それでさらに調査をするつもりであったのに、ここで打ち切られてしまった。非常に残念に思う。」というような証言をしております。ただ、厚生省としては、急に打ち切ったというよりも、一つの答申が終われば、こういった特別部会は解散するというのが通例であるというようなことを言っております。そういった中で政府としての対応は、チッソの工場排水までは行きつかないという形で決まっております。
 一方、現地では、2ページ目の一番上にありますが、衆議院の調査団の現地視察があり、それに時を合わせて、11月2日に漁民の暴動が起こる。現地の紛争状態がかなり鮮明になっている。
 それに対して、3つ目ですけれども、11月7日に水俣市長、市議会、商工会議所等が、県知事に対してチッソの操業停止につながるような工場排水の停止に反対するというような意思表示をしております。
 そういった紛争状態に対して、県知事として漁業紛争の調停をやろうということで、食品衛生調査会の答申を待って動き出すということが起こっております。3ページ目の年表の下から3つ目の11月24日に不知火海の漁業紛争調停委員会という、県知事と県議会議長、水俣市長などがメンバーの委員会を設置して、調停作業を本格化させるということでございます。
 そういう中で患者団体の座り込みという患者の初めての意思表示が起こり、漁業紛争調停委員会の中で患者の補償要求に対しても調停をしていこうということになっております。
 調停の動きにつきましては、4ページでございますが、34年12月25日、調停が妥結したのは12月18日でございますけれども、まず漁業補償について調停が行われるということでございます。
 それに対して、右側の証言でございますけれども、通産省の軽工業局長は、「調停内容で原因がチッソだというところまでいかない前提で、だから調停を進めることを認めたのではないか。同業種に与える影響を心配する必要はなかったのではないか。」ということを聞かれて、「そういうことです。」というような答えをしております。
 また、食品衛生調査会の食中毒部会長だった熊大の学長も、「急に紛争の仲裁や補償のための委員会ができて、工場排水が原因であることを書いていない答申を前提に補償の交渉が進められるということは考えていなかった。」と。そういったことの中で、学識経験者も入らない調停委員会で進められることについて批判的に述べております。また、「補償の相談に干渉することに文句を言える場がなかった。」というような証言をしております。
 参考資料2して当時の新聞記事をお手元に配布しております。これは34年12月18日の記事でございまして、漁業紛争の調停が妥結したところでございます。見出しにもありますように、「水俣紛争円満解決へ」と書かれておりまして、裏面には20日付けで調停の当事者である知事や県議会議長、漁連の会長などの座談会を載せております。
 調停のもう一つの課題であります患者団体との問題は、4ページの2つ目の12月30日に、互助会が、年末ぎりぎりの段階で調停委員会による調停を受けて、見舞金契約を締結するということでございます。
 それについて、右側の厚生省の衛生部長の証言として、「知事さんが被害者との間に立って和解をされて、そのお礼に来られたということで、円満に解決しました。」というような趣旨の挨拶があったというふうに証言しております。
 当時の現地の雰囲気として、また新聞記事の3ページ目、地元のミニコミ誌『水俣タイムズ』の記事をつけております。この線を引いてあるところを見ていただければと思うんですけれども、当時の地元の雰囲気として、「水俣病だ、工場襲撃だという紛争に明けくれた昭和34年はどうやら年内に騒動の解決をつけて暮れようとしている。」と。下の方で「奇病の憂いは続くが、一応の片がついた今、奇病の災厄を転換として、大水俣発展への出発期にちょうどの正月が来たようである。」と。
 原因解明は半ばでとどめられておるという状況の中で、漁業紛争、被害者への補償と言いますか、見舞金の契約の締結という、紛争処理と言いますか、調停の結果、現地においては水俣病問題はとりあえず終わって、課題は残っているけれども、これからは新たな水俣の発展と。このミニコミ誌は当時水俣病問題を地元で良く追っていた新聞であったわけですけれども、そのミニコミ誌ですらこういったことを言っているということで、現地の水俣市長をはじめとしてチッソの操業を止めるなという陳情をし、県知事もそれを受けて調停をするということで、とりあえず紛争状態の終結とともに、現地においては水俣病問題はとりあえずの解決はついたということで、急速に終息化と言いますか、蓋が閉まるというような状態があったことがうかがわれるところでございます。
 それに対しまして、政府、それから、研究者の動きということでございます。政府の方は、厚生省の食品衛生調査会の部会の解散に伴いまして、3ページの上から2つ目でございますけれども、今度は経済企画庁が中心になって、関係省庁や関係の学者を集めて総合的な連絡協議会の設置が方針として決められまして、35年1月に水俣病総合調査研究連絡協議会ができるということでございます。
 それから、もう1つ大事なことを忘れていました。34年の年末には現地の紛争状態の終結、補償問題の解決とともに、チッソのサイクレーターという排水浄化装置をこの12月という時点で設置を完了したということ。これは判決などで、後から見れば、また、当時でもちゃんとした学識のある人が見れば、水銀の除去に効果がなかったことがわかったのではないかと言われておりますけれども、当時の新聞記事などを見ますと、これで排水もきれいになるということで、工場としてのやることはやったというような新聞記事にもなっております。サイクレーターの設置による工場側の対策の実行と、現地として一番表に出ていた紛争状態の中身としての漁業紛争の補償による解決、それから、被害者、患者の見舞金契約という3つの事態の収拾で、現地的には水俣病問題の終息化ということが、今紹介しましたマスコミやミニコミ誌の記事などでもうかがわれるということでございます。
 その後の流れとして、最後のページの35年1月以降でございますけれども、一つは原因解明を地元の熊本大学などでさらに進めようという動きが当然あるわけで、そういう中で化学工業界がそういった地元の動きも取り込んで、全体をコントロールしていくような形での田宮委員会というものを組織しております。当初、熊本大学はこの委員会への参加を拒否しておりますけれども、途中から参加する方向に変わっております。
 もう1つは、今言いました水俣病総合調査研究連絡協議会が2月に開催されると。それと並行して、裁判でも34年末の不作為を問われております水質二法の水質保全法の規制をどうするかということで、調査水域には指定していくということがございますけれども、現地での紛争状態の終結の中で、行政官としての問題意識の持続みたいなことの中で、総合調査連絡協議会自体が迷走して、4回開催されて、36年以降開催されないと。
 開催されないということについての理由として、証人尋問の中で、右側の下の2つでございますけれども、厚生省の当時の課長は「患者の発生もあまりなく落ちついてきた。また、水銀の排泄とか、ヘドロの水銀量も少なくなってきた。」と。また、主催者としての経済企画庁は、「その協議する必要性がもうなくなったというか、進展性、発展性がこれ以上ないのではないかというようなことで、4回以降開催されなかった。」というよう証言をしておりまして、現地での問題の終息化の上にあぐらをかくと言いますか、不作為を決め込むような形に結果としてはなっていると。
 また、田宮委員会自体も、原因の追及を結果として引き延ばすために利用されたんだなというような感想を参加者が持たれているということで、これも東工大の教授がアミン説を出したりして混乱すると言いますか、迷走して、結論的な成果を見せずに終わってしまうと。
 唯一、熊大の研究が37年、38年と行われて、チッソのスラッジからのメチル水銀の抽出なども発表していますけれども、そういった状況を覆すほどのマスコミ的な注目も、また政府における取り上げもないままに、40年の新潟水俣病の公式確認によって、再度、熊本の水俣病問題がクローズアップされるというような状況になっているということであります。
 結局、水質2法自体も、44年2月になってチッソのアセトアルデヒドの製造が終了してから規制が開始されるというような状況でございます。現地での問題の終息化、蓋が閉まるというようなことに、その後の行政なり科学者なりの動きがかなり左右されて、現地の状況の上にあぐらをかくといいますか、不作為を決め込むというような対応に結果としてなっているということがうかがえるということでございます。
 チッソ、それから、現地、それから、行政及び学者の対応ということで、当時、34年前後の事実の流れ、それから、それに伴う当事者の考えや意識を探るということで関係者の裁判での証言を中心に資料をまとめさせていただいております。
 説明は以上とさせていただきます。

○有馬座長 どうもお疲れさまでした。
 大臣、お忙しいところお出でになっておられますので、ごあいさつとご意見を賜りたいと思います。よろしく。

○小池環境大臣 遅れまして恐縮でございます。国会の関係がございました。
 この懇談会もいよいよ5回目ということになりました。今も詳しい説明を担当の者からさせていただいておりますけれども、ことほどさようにいかに予防的なアプローチが行われていなかったのか、今回のアスベストでも同じことが言えるわけですが。問題の原因について科学的な答えを出せ、理由を示せということで、それができないままにどんどん時間がたっていくというようなことがあります。また、地球温暖化にしましても、温室効果ガスとの関係は明らかなのかと問われれば、いろいろな説もあるわけですけれども、我々は少なくともわかっていることについては、なすべきことをしておかなければ、後でとんでもないことが起きるんだということを心して、環境行政に当たらせていただいているつもりでございます。
 10月15日、10日ほど前でございますけれども、水俣病関西訴訟の最高裁の判決からちょうど1年が経ちました。先ほどからのご説明にもありましたように、昭和34年末時点での原因企業への規制の問題があるわけですけれども、最高裁の判決で不作為の責任が認められたということでございます。改めてその結論を厳粛に受けとめ、また水俣病の拡大を防止できなかったこと、予防的アプローチなるものができなかったことに対して反省を申し上げたい。また、すべての水俣病の被害者の皆様への謝罪の意を、ちょうど記者会見の日でございましたが、改めて申し述べさせていただきました。
 1年が経ち、この間に総合対策を進め、そして、被害者の方々にとって一日でも早く、安心をしていただけるような対応をとろうということで、これまで幾つかの計画を立て、そしてまたそれを実行してまいっているところでございますけれども、まずは医療の必要な方々に医療費の支援を行う対策を始めたところでございます。来年、水俣病の公式確認50年を迎えるわけでございますけれども、水俣問題の責任、そして教訓を将来に生かしていくその方策を考えていかなければならないわけでございまして、皆様方のさらなる深いご洞察と、今後のご提言を頂戴できればと思います。
 特に今、メディアの分析も並行して担当の課長からご説明がございました。第1回目のときに屋山先生から、「あの当時、水俣病とか公害のことを書こうとすると、経済優先だからといって記事にもしてもらえなかったんだよ。」というようなお話がございました。社会全体でそういった流れ、雰囲気、空気というものがあったことも、改めて確認をすることで、いろいろな分野での予防的なアプローチが今後もさらに求められるんだなと、そのような感想を持ちながら、今の報告を聞かせていただきました。
 遅れて来て申しわけございませんが、また今度委員会の方で答弁に当たらなければなりませんので、途中で失礼させていただくことをお許しいただきたいと思います。
 また、ご遠方から毎回足をお運びいただきまして、まことにありがとうございます。ご多忙の皆さんに改めて感謝申し上げたいと思います。
 ありがとうございます。

○有馬座長 座長として大臣に質問があるんですが、よろしいでしょうか。
 この懇談会はかなり難しい問題を初めから含んでいると思っておりますが、どうして水俣病がここまで難しくなったかという事実関係はよくわかってまいりました。今おっしゃったように産業の促進の問題にも絡んでいたし、それからまた、従業員の人たちにも絡んでいたし、さらに研究者同士の意見が食い違ったこともあった。それから、国として産業を推進したいというのと、厚生省としての生命を守りたいという気持ちもあって、そこで必ずしもきちっとした方針がとられなかった、縦割りがあった。
 こういうことがわかってまいりまして、これに対してそれぞれさまざまな見解を我々は出すことができますけれども、それではこれからどうするのかというときに、具体的な案が出てくる可能性はあるわけですね。例えば経済中心主義ではないようにせよとか、いろいろなことが出てくると思います。そういう要望がこの懇談会から出ました場合に、大臣としてはそれをどういうふうにお受け取りになり、その中で実行可能なもの、実行不可能なものということに関して、どう判断なさって、今後の行政に反映していただけるのか。一度そこをお聞かせいただければ、我々としても議論がやりやすくなると思います。よろしくお願いいたします。

○小池環境大臣 ご質問ありがとうございます。これは別に博士論文のための懇談会ではございません。皆様方の知恵をその中で凝縮していただいて、こういった方向でどうだというようなご提言もいただければと思っております。
 今おっしゃいましたように、環境省としてできること、政府としてやらねばならないこと、その所掌の範囲などもございましょう。しかしながら、それをやっているといつまでも縦割りがそのまま続くだけの話でございますので、この懇談会は環境省がやらせていただいておりますけれども、それをできるだけ多く声を広げられるような方策についてしっかり、私も責任を持ってやっていきたいと思っております。
 私、一昨日までソウルにおりましたけれども、日中韓の環境大臣会合というのが粛々と毎年行われております。この水俣病という大きな日本の反省を世界にも発信していくというのはひとつ大きな責務になってくるかと以前から思っております。この懇談会の内容などにつきましても、そういった意味で大きく発信していくことも、懇談会の皆様方にはご考慮に入れていただいた上でまとめにしていただければ、大変うれしく思うところでございます。

○有馬座長 ありがとうございます。
 あるいは、我々からの提案がかなり難しい問題を含むこともあり得ると思いますけれども、ぜひともその点もお考えいただきまして、実行できるものから実行していただきたいと考えております。
 ついでに、この際、よけいなことですが、申し上げますと、地球温暖化の問題は科学者として非常に深刻だと思っております。確かに大臣おっしゃったように科学的に完全には詰め切っておりません。ですけれども、起こってしまってから、すなわち二酸化炭素が温暖化の原因だということは明らかになってから止めようと思っても、ほとんど不可能だと私は心配しています。そういうことにならない前に、アメリカをぜひともご説得いただいて、アメリカの現大統領がどうしても反対のようでありますが、絶対これを賛成側に持っていくようにご努力賜りたいと思います。
 この懇談会の内容から逸脱しましたけれども、私は長年というか、このところずうっと考えていることを申し上げた次第です。よろしく。
 それでは、説明がありました資料2と、これに関連した参考資料をもとにして、昭和34年前後及びそれ以降の段階で問題はどこにあったのか、今後に生かせる教訓は何かなどの論点につきまして、活発なご意見をいただきたいと思います。異なる分野でご活躍の委員の方々に、それぞれの視点からご発言いただくことが本懇談会の目的でもございますので、となたからでもよろしくお願いいたします。
 どうぞ、柳田先生。

○柳田委員 最初からで恐縮です。関西訴訟判決をベースにして、非常に手際よく要点をまとめてくださったことは結構なことなのでありますけれども、この問題を考えていく際に、当委員会として非常に重要なことは、関西訴訟というのは裁判という枠組みの中で物事が議論され、判断され、資料の検討が行われているということであるわけで、裁判とは何かというと責任関係を明らかにすることです。我々がやることは、責任追及はさておき、この問題がなぜこんなに深刻に拡大したのか、その諸要因を分析して、いかなる対策を取り得たのか、そうであるならこれからどういう対策を取るべきかということを導き出すことなわけですね。これは事故調査、災害調査の方法論として、いわゆる刑事捜査における、あるいは行政責任追及における、責任解明の方法論と、事故の諸要因を分析して、安全なシステムづくりなり、社会づくりをしていくという方法論は全く違うんですね。
 そのことから考えますと、今日のこの整理は、流れは非常によくわかるんですけれども、ここから何を読み取るかというときに、誰に責任があったのかとか、行政のどこに責任があったのか、それはそれで重要であります。それは刑事裁判なり民事裁判なりでそれぞれの答えがかなり出ているわけですけれども、ここでやることはそれとちょっと違う視点ですね、ちょっとというか本質的に違う視点。
 具体的に言いますと、今、34年が焦点になっており、それがまた社会的にも大体そのあたりが一つの判断の分かれ目になったということが言われているわけですけれども、その背景には、32年の端緒の段階から行政はどういう価値観なり問題意識でこの問題に当たろうとしたかというところが、そもそもの分かれ目であったと私は見ているんですね。そういうことを実証的に考える上で重要なのは原資料です。つまり、当時の会議メモであるとか誰かの発言であるとかですね。
 ちなみに、昭和32年はいよいよ問題が起こり始めて、原因もまだよくわからないという段階ですけれども、今日整理された表で言いますと、昭和32年の3月、原因がある種の化学物質ないし重金属と推定されるというようなことが出てきて、その年の夏、8月から9月にかけて、当時の法規に従って漁獲の禁止ということをできるのかどうかというところですね、そのあたりの状況を考えると非常に重要なポイントがあるんです。それはここには載っておりませんけれども、昭和32年5月21日付け厚生省のメモが残っております。水俣奇病会議という会議がありまして、現地の大学、行政関係で行われた会議でして、それの簡単なメモではありますが、厚生省部長の発言について非常に要領よく要点をきちっと書いてあります。
 どういうことが書いてあるかというと、「行政屋にはもう今までの研究でよい。考え方が2つに割れている。大学はこの辺で行政的に漁獲禁止の線を引けと言っている。行政は今の段階では何とも言えない、まだまだ手は打てない。」と。こういうふうに2つの考え方を整理してまとめて、これに対して「大学は、行政のことまで口出ししてもらいたくない」、こういうことも部長の発言として記録されているわけです。これは非常に重要な問題を含んでいると思うんですね。つまり、厚生省の当時の責任者である担当部長が、行政屋はこれ以上原因をあれこれ言わなくてもいいと。当時の法規に従えば、客観的な根拠が薄いから、漁獲禁止などをすることはできない。これでもいいじゃないかというところで手を打って身を引こうとしているわけです。これが一貫してその後もずっと貫かれるわけです。
 今日の整理によりますと、厚生省が善玉で通産省が悪玉みたいな印象を受けるわけですけれども、もっと根源的な問題は行政屋が考える価値判断の根拠ですね。一体何をもって物事をまとめようとするかということ。事故分析なんかでは、失敗分析で非常に重要なヒューマンファクターの背景としての人の意識や決断を決める背景にある価値観、あるいは、組織の持っている文化的風土といったものが大変重要なわけで、そこを突かないと、当委員会が今後行政改革のどういうところを突っつけばいいのか、どういう組織的保障をもってこれからの行政マンの問題意識の方向を変えるのか、場合によったらコペルニクス的展開をしなければいけないようなことも要求しなければいけない。あるいは、組織的にどういう保障をすれば、行政マンがこういう悲劇の立ち上がりの段階で正確な対応をできるのか。民の立場、被害者の立場に立った対応ができるのかという、そこの判断の根拠、意識の背景にあるもの、そこを明らかにしないとだめであるということなんですね。何といってもそこをまず議論する必要があるというふうに思うわけです。いかがでしょうか。

○有馬座長 非常に重要なポイントだけれども、一番難しいところですよね。そこのところをどういうふうに可能なものにしていくか。コペルニクス的展開というものをどういうふうに可能なものにしていくかということをご議論賜っていかなければいけない、その辺はどうお考えですか。具体策をいろいろ聞きたいんですが。

○柳田委員 では、ちょっと具体的なことを申し上げたいと思います。私はこの数年来二・五人称の視点を行政機構の中に取り入れるべきだという提言をしてまいりました。人事院月報などにも載せていただいたり、最高裁判所の裁判官研修、あるいは、昨年は特別職だったか高級公務員だったか、大学を出て国家公務員の上級職試験に通った700人ほどの新人研修でも話をさせていただきました。どういうことかと言いますと、今日の専門化した社会においては、法律にしろ医学にしろ、科学にしろ、それぞれの専門的な学問を学び、就職しますと、そこにおいて客観的な判断をしろと、私情を交えるな、あくまでも公平、客観性を旨としろと。対象と距離を置けということをたたき込まれるわけですね。それはそれで重要だと思うんです。いいかげんな私情に流れた判断はまた困るわけですから。
 しかし、そこに落とし穴がある。どういうことかと言いますと、最もわかりやすい一例を挙げますと、神戸で97年に「酒鬼薔薇事件」というのがありました、あるいは「少年A事件」とも言われますけれども。あのときの家庭裁判所の判事の井垣さんがベテランの少年事件の判事さんでありましたけれども、被害者淳君のお父さん、土師さんが、「なぜ、我が息子はこんな悲惨な目に遭わなければいけなかったのか。それを遺影をもってこの子にも聞かせてやりたいし、自分も知りたい。一体何ゆえにこんな加害少年が育てられ、どういう動機で我が子は殺されなければいけなかったのか知りたい。」と申請したわけですが、井垣さんはそれを却下しました。
 それは、少年法に規定する審判というのは、加害少年の更生を審理する場であって、被害者がどういう状況にあろうと、それは関係ないことであるということだったわけですね。これは常識で考えると愕然とするわけです。最も救済されるべき、そして最も情報を求めている被害者が埒外に置かれるということ。この背景にある問題は、専門分化した枠組みをつくっておいて、その中だけで問題を処理しようとする。この水俣会議で言えば、当時の食品衛生法とかいう枠組みの中だけでこの問題を解決しようとするところに、同じような判断があったわけですね。
 でも、井垣さんはその2年後に、お父さんの土師さんや、1カ月前に殺された彩花ちゃんのお母さんの山下京子さんの手記などを読んで、「被害者というのはこんなに悲惨なものか初めて知りました。」と。そのこと自体、私は驚きだったんですね。つまり、少年事件の専門家というのは被害者のことを十分熟知した上で更生の問題を考えているのかなと思ったら、そうではなくて、法規に照らして何をすべきか、あるいは50年間営んできた少年法の審判ということに基づいて、経験則に基づいてやる。あるいは前例に従ってやるという枠組みの中で考えていた。井垣さんはそのことをご自分で発見されて、「私は判断を間違ったかもしれない。今後同じ事件の審理をするならば、ご遺族を審判の席に招いて、思い出のアルバムなどを開きながら、加害少年が自分がやった罪を本質的に理解して、本当の更生とは何かを考えさせたい。」と、こういうふうに告白記を書いたわけです。
 これは乾いた三人称の視点、乾いた専門家の視点から、当事者である一人称、二人称の立場に寄り添う、そういう立場に視点を移したということができると思うんです。このように専門家が自分の専門的な知識を生かしながら、しかし心情において自分が被害者であったらどうであろうか、自分の家族であったらどうであろうかという視点に場所を移して考える、そういう判断の仕方を加味していくことが本当に潤いのある行政であるし、法律家であるし、あるいは、科学者であったり、ジャーナリストであったりするわけです。
 メディアの記者であっても同じような落とし穴があるわけです。例えば脳死1号のときにも、高知の病院で今か今かとまるで死ぬのを期待するかのようにフラッシュをたき、皓々と病棟にテレビ中継の照明を当てて脳死判定を待っている。まるで人の死を期待するかのような報道をするわけですね。これなんか完全な三人称の立場になっているわけですけれども、家族の立場に立ったらそんな取材はできないはずなわけです。それが今の専門分化した日本の社会の中で蔓延している大きな落とし穴だと思っているんです。
 では、どうすればいいかというと、世の中も動いてきて、例えば犯罪被害者については、警察庁、検察庁、裁判所、それぞれに情報を提供するようになりました。わずかこの数年の動きですね。犯罪被害者保護法なども若干変更されて強化されたり、あるいは、情報提供の重要性というところから窓口をつくったりするとか。水俣病の当時においてはそんな視点は全くなくて、被害者は門前払い、今の法律では何も行政は動けませんというようなことで、厄介払いされたわけですね。また、社会的な意識もそういう方へ向かないから、この34年のミニコミ誌にあるように、シャンシャンと手を打てば終わったというふうに思ってしまう。こういう社会風潮もできてくるわけです。
 それを今後どうすればいいかというと、行政改革の中で被害者支援局のようなものをつくるべきだと思うんです。ちなみに、アメリカでは陸・海・空の事故調査をする国家運輸安全委員会(NTSB)という組織がありまして、そこで90年代初めに家族支援局というのができました。これはアメリカの政府でも最初の実験的な試みとして行政が、特に事故災害調査について原因を調べているだけではいけないと。また、安全対策を立てるだけでもいけない。被害に遭って救済すべき人に対していち早く手を打つことも行政の役割だということで、家族支援局というのをつくったわけです。アメリカの場合、陸・海・空、パイプライン、それぞれすべてこのNTSBが網羅していますから、大きな事故についてはそういう対応が取られるようになったわけです。
 こういう行政的な組織の裏づけがあると、その行政の組織で働く人たち、例えば環境省の中に、家族支援局であれ被害者支援局であれ、名称は別として、そういうところがありますと、ほかのセクションでいろいろ仕事をしている人も、問題意識、そういうことを考えなければいけない、絶えず二・五人称という、乾いた三人称でなく、客観性は持ちながらも、一人称、二人称に寄り添うという意味で、私は「二・五人称」という用語を使っているんですが、そういう視点の重要性をあらゆる部局の人が共通意識として持つと。それが行政マンの問題意識を改革する一つの具体的な裏づけであり、保障であるというふうに考えるわけです。
 これは何も環境省だけの問題ではなくて、問題は非常に広範に及びまして、法務省、これは犯罪関係ですね。それから、厚生省は当然医療問題で、患者あるいは被害者の立場に立つ部局というのはあるべきですし。あるいは、経済産業省にしても、産業問題が住民とかさまざまな問題に絡むときか、あるいは、いろいろな生産物が、アセスメントをして一般市民にどういう影響を与えるだろうかとか、あるいは、家庭用のさまざまな電気機器がどういう影響を与えるだろうかとか、そういうことを検討する部局が経済産業省にもあってしかるべきです。あらゆる行政機関の中で共通に設置すべき問題であると思うんです。行政改革というのは、身軽になることだけが目的ではなくて、本当に必要なこと、民の立場に立って行政が今後動いていく上で何をしなければいけないかということに対して答えを出すことも、より重要な行政改革ではないかと、そういうことを思うわけです。
 先ほど言いました32年の一つのメモから読み取れることは、そういう行政マンの判断、意識を左右する価値観、それを支える組織の問題、そこまで考えるべきことを示しているのではないか、私はこう思うわけです。
 以上です。

○有馬座長 ありがとうございました。
 先ほど大臣にいろいろな提案を出したときに、「真剣に考えていただけますか。」ということを申し上げました。その一つの例として、例えば被害者支援局というものをつくっていただきたいと。例えばの話ですが、今、柳田さんからのご提案、こういうものが幾つか今後出てくるだろうと思います。そういうときにぜひともよくお考えいただきまして、ご採用いただくという方向に進んでいただければと思っています。こういう具体的な提案が今後懇談会で出ていくかと思いますので、どうぞよろしくお願いいたしたいと思います。
 私としては、政府のお手伝いなどをしていてつくづく思うのは、省庁間の利害の相関図、これをどうしていくかということが気になっていまして、国全体のかかわる大きな問題もありましょうし、もう少し小さな問題もあろうと思いますけれども、例えば今回の水俣病でわかってきたことは、行政の中での対立があると。そういうふうなときにそれをどう調整していくのか、そのためには有力な調整機関をつくる必要があるだろうと。アスベストにしてもそうだと思います。そういうことについても少し議論させていただいた上でご提案申し上げたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
 それでは、どなたからでもご意見を。
 はい、金平先生。

○金平委員 今もお話を伺っていてつくづく思いますのは、公害とか公害病、公害行政、すべての言葉がまだ30年代、今日の私たち検証の対象になっている年代にはなかったように思います。しかも、日本は高度経済成長をひたすら走っていた時期で、当時のことを現時点で評価することは大変難しい。私は経済成長万能の社会的な風潮の中で、マイナスの要因ということに政治も経済も行政も取り組んでいなかったと思うんですね。しかし、水俣で見る限り患者は発生し続けていたと思います。公害であろうとなかろうと、こういう健康を害した人たちが一定のところにどんどんできていった、という事実というものが、どういうふうに行政またはマスコミ、または研究者のところで取り上げられたか。その事実を社会に広げようとなさったか、ということです。残念ですが、幾ら当時の社会的な背景を考えとしても、基本的に行政は、特に自治体行政というのは市民の健康を守るということが前提にあるわけです。原因が何であろうと不健康があれば、それに取り組むというのが当然だと思うんですけれども、そこのところを取り上げてこなかったというところに、基本的な思慮というか、スタンスが水俣病に対してなかったという気がして仕方がありません。
 ちょっと飛びますけれども、水俣病には政治的な解決というものがあります。水俣病だけでなくて、往々にしてこういうふうに混乱するものに政治的な解決というものが、社会の知恵としてあると思うんですね。政治的な解決というのは本来科学的検証の対象ではないと思います。
 しかし、現実には『熊日』の記事などを見ても、34年当時の問題が終わったかのような、みんなほっとしているというふうな、政治的な解決がよかったよかったと、すべてがそういうふうにほっとしている様子が見えるわけです。政治的な解決が仮に必要だったとしても、だからこそ何を積み残した、ということをはっきりさせておくべきだったと思います。これが全く明らかにされてこなかったということが、水俣病の問題を混乱させているような気がして仕方がありません。
 それが、強いて言えば、今、柳田委員のお話にもありましたけれども、被害者の立場というか、人間の立場というか、そういう立場からの思慮というか、こういうものではなかったかというふうに思います。これは行政だけではなくて、学者、マスコミが整理しておくべきで、この熊日新聞がその後どういうふうに報道なさったかは知りませんけれども、政治的な解決で、その後、患者の実態がまた埋没してしまったということではなかったのかなと考えています。患者、被害者の実態が本当に把握されないまま、調停という解決で何となく適当に終息宣言が行われながら、積み残しが今の問題に顕在化しているように思っております。積み残し、特に人間の立場、被害者の立場からの視点を常に誰かがどこかできちっと出していく必要があると思います。
 とりあえず。

○有馬座長 ありがとうございました。
 加藤さん。

○小池環境大臣 座長、すみません。時間がまいりまして、申しわけございません。
 またどうぞよろしくお願いいたします。
 (小池大臣退席)

○加藤委員 柳田委員、金平委員のお話に関連してですが、34年以降のこの問題を考えるときに、水俣病の終息か蓋閉めと言いつつ、この31年から34年にかけてたくさんの患者さんが生まれているわけですね。実際に現地は蓋閉めどころか、日々家族の中に原因不明と言われる患者を抱えて、大変な状況であったというふうに思うんですね。確かに昭和30年代を想像すれば、袋地区は水俣の市内からすれば海路で周辺の部落が行き来する、そして水俣の市内に行くとすれば、1年に数回の祭りやハレの日であった。そういう中でそこの地区では大変な状況が起きていたわけです。
 一方、関西訴訟の証言を聞いていても、行政の担当者にしろ、大学のさまざまな研究者にしろ、現地に本当の形で足を踏み入れて、現地で起きていることをつぶさに見て、その事態をどうとらえるかという見方がなかったというふうにつくづく思います。これはまさに中央と地方の余りにも距離があったということだと思うんですけれども、こういう形で常にそこで起こっていることを我が身としてとらえたときには、多分こういう状況では進まなかったと思うんですね。結果的に工場内の実験ではっきりとチッソの排水が原因であるということがわかりつつ、経済を優先し、人の死んでいく姿はそのまま脇に追いやられて、ひた走りに進んできた結末がこういうことになっていると思います。
 現実に、今、水俣の現地の状況というのは大変な状況になっていると思います。少なくともこの懇談会がこうした形で開かれること自体が、そのことが一番のきっかけになっているわけで、この懇談会が現実に水俣で今起こっていることと全くかけ離れたところで議論されるんだとすれば、懇談会そのものは無意味になってしまうと私は思います。実際にこういう形で現地水俣から私と吉井さん、そして、熊本から丸山先生が参加してくださっていますけれども、少なくとも今の時点でも一般的に得られる情報において、東京周辺に住んでおられる委員との間に差があると思っています。ここも埋めた上で、今後議論をしていく必要があるだろうとつくづく思います。
 特に34年以降、少なくとも現地に入った研究者の方たちで、それ以降最も被害者の立場に立って研究なり、ご自分自身が水俣病に取り組んでこられた先生方というのは、この当時に足しげく現地に通われた先生たちだと思います。この当時、私が日ごろかかわっている胎児性患者さんの親子、家族がどれだけ悲惨な状況にあったかということは、その先生たちが克明に記録にも残されております。事が起こったときに実際に現地に足を運んで、そのことを柳田先生のお言葉を借りれば二・五人称、客観性を持ちつつ、それを我が家族に起こった出来事に置き換えて考えられるような視点を行政全体が持たない限り、水俣病の教訓というのは生かされていかないと思います。

○有馬座長 ありがとうございました。
 加藤先生にちょっと質問があるんですけれども、今、中央と地方というふうに言われた、これはそうだと思うけれども、行政というのは中央だけではないですよね。地方行政というのがある、その地方行政の、水俣とは限りませんが、地方行政のあり方についてはご意見はないんですか。

○加藤委員 行政一般において、行政が市民に対して客観的にものを見ようとするときに、客観的という理由をもって、実際に最も困難な状況にある市民の要望とか要求を見落としてしまうことがよくあると思うんですね。だからこそ、そこが我が身に置き換えてという行政全体にかかわる人間の姿勢というのが必要だと思います。それは中央であろうと地方であろうと変わらないと思います。いずれにしろ、事が起こっている、そこの場にきちっと足を運んでいくということが大事なんだと思います。

○有馬座長 ありがとうございました。
 鳥井さん。

○鳥井委員 まず最初に、今、加藤さんのおっしゃったことについて少し考えを。東京の委員と水俣の、九州の委員と意識の差があると、これはしようがないことだと思うんですね。せっかく両方から委員が出ているんですから、相手のことを否定せずに、お互いの視野、視点を尊重しつつ議論を深めていくということしかしようがないだろうと思います。
 それから、2点目は、さっき柳田さんがおっしゃった二・五人称という話で、今のお話を聞く限り二・五人称というのは大変説得があると思うわけであります。しかし、それを役人の判断のすべてに広げていいかというと、私はそこはそうでもないという議論もあり得るような気がするわけであります。行政というのは法律に基づいて粛々と政治の具体的側面を執行していく立場にあるわけで、そこで情が主導して何かをやるとか、それをちょっと行き過ぎれば情実みたいなものが主導して何かをやるということにつながっていきかねないわけであります。
 ですから、こんな言い方はおかしいですけれども、普通の行政の人は立場というものをしっかり踏まえてやっていただく必要があって、それと別の部分で、先ほどの支援局みたいな話とか、そういうメカニズムがあるということはいいことのような気がするんです。役人がすべからく二・五人称でということについては若干疑問がある。お役人が法律に基づいて何かやるというふうに考えると、ここでこういうふうになっちゃったのは結局は政治の責任ということなんですね。制度をそういうふうにつくらなかったというところが問題があったというふうに解釈せざるを得ないという感じがするわけであります。その辺もうちょっと理性的にものを考える手を何とかできないかなという気がしています。
 もう1つ、全然別な視点から言いますと、現在、例えば技術者倫理とか、説明責任とか、情報公開ということを非常に声高に言われているわけでありますが、これが本当に徹底したら水俣病が起こらなかったのかどうかというのを一度考えてみる必要があるような気がするんですね。本当に起こらなかったかというと若干疑わしいところがあるような気がするわけです。なぜかと言いますと、科学的な不確実性が初期にはあったわけでありまして、その不確実性に対して科学者が責任を取れるかというと取れないですね。政治的にも不確実性に対して、政治の責任だとは言ったんですけれども、責任を取れないところがある。起こった後から何か対処できたかもしれないけれども、未然の予防というのは、今言われているような技術者倫理とか、そういうことでは取れそうもないなと考えると、もう一概念必要かなという感じがしている。何かそこはよくわからない。
 以上であります。

○柳田委員 ちょっと補足させていただけますか。

○有馬座長 どうぞ、柳田さん。

○柳田委員 私が二・五人称の視点というのを提言したのは、何でもかでもそういう視点ということではないんです。物事というのは白か黒か、1か0か、そういうふうに全部をこういう視点でとか、そういう視点は全部でやらないとか、そういう二者択一的な考えではなくて、もっと柔軟な問題の取組方という意味をそこに込めているつもりでございます。
 科学技術や法制度が発達すると、どうしても白か黒かという発想が優先してしまう恐れがある。当然、行政というのは客観性、公平性、そしてその基準としての法規に従うということは重要でありますけれども、往々にして新しい問題が起こったときに重要なのは、現法規の中あるいは現ルールの中では対応し切れない問題がしばしばあるわけで、そういうときに「これは法律に照らしてできません」と言って突っぱねたのが、今までの行政の重要な問題点で、できないならどうすればいいのか、行政はそのセクションにおいて何とかできる方法はないのか探る。法の改正なり新しい立法なり必要ならそれに対応していくと、これが二・五人称の視点として必要だということを私は申し上げたかったんです。
 妙な例ですし、決してその結果がいいとは言いませんけれども、田中角栄首相が、モータリゼーションの進行に伴って日本の経済発展をさせるためには道路整備が必要だと財源はどうするかというのでわずか1か月で自動車関係諸税をダイナミックに導入するのを決定したというふうに、政治というのは絶えず、今の法規では経済成長に必要な道路網の整備はできない、じゃあどうすればいいかというのでこういう税を創設するということを考えていくわけですね。そのことは決していい意味で言っているのではないんですけれども、絶えず現行法ではできない新しい状況の変化に対応するには、どこかをいじらなければいけない。
 そういうときに二・五人称の視点というものを考慮すると、先ほど加藤さんがおっしゃったように、今、現実に被害者がいると、そこから絶対離れてはいけない。これをどうしたらいいんだろうと。その上で現行行政のどこに欠陥があり、法規のどこに穴があり、新しい状況に対してどういうふうな法整備をしなければいけないのか、こういう議論に発展していってはじめて、被害者、弱者の立場に立てるのではないかと思うわけです。そのことは決して行政の公平性、客観性を阻害するものではないと思うわけです。
 とりあえずそのことを補足させていただきます。

○有馬座長 ありがとうございました。
 いろいろ難しい問題がここに提起されておりますが、さらに議論を深めていただきたいと思います。
 どうぞ、加藤さん。

○加藤委員 今、鳥井委員の現地と東京周辺の委員との情報の共有化のところで、共有できていないことを責めるのではなくて、現実に起こっている水俣病にかかわる問題、よもやこんな展開だと思わない、思わぬところに95年から10年後はきているわけですね。そして、この懇談会なんですね。水俣には大きな解決困難な山がドンとあるわけですよね。そのことに対して、少なくとも日々、私は水俣に暮していて、普通に暮している人たちの中に、自分の今の体の不調は何なのかというときに、素直に水俣病と結びつけられるような状況があるわけですよね。それが3,000人の申請する患者さんにつながっていると思うんですね。
 今起こっている現地の情報は、少なくとも私たちは新聞やテレビで、今、世の中で起こっていることを普通に手に入れるわけですよね。だけれども、このことは東京の新聞には書かれないでしょうし、テレビには出ない。でも、熊本県にいるとテレビにも新聞にもほとんど毎日のようにそれに関連する記事が出る。だから、最低こうした委員会のときに、現地では今こうですというところを踏まえながら、皆さんが議論することが本当の意味での新たな、今、私たちはどういう提言をしていったら再び過ちを繰り返さないのかということにつながると思うんですね。
 だから、すごく基本的なところで、新聞やテレビが決して真実を伝えるわけではなくて、その中から私たちは読み取っていかなければいけなくて、読み取れるだけの知恵や力を持っている委員の皆さんだと思いますから、まず一番手近なところである情報を共有したいですねという提案です。

○有馬座長 ありがとうございます。
 どうぞ、屋山さん。

○屋山委員 50年もたってケリがついてないということ自体が問題なんで、日本のシステムに問題があるのではないかと。例えば、つまらないことでもなかなか決まらないですよね。私は貿易交渉をずっとカバーしていたことがあるんですけれども、国際的にそんなものを断ったってどうしようもないという情勢の中で、日本政府は年に2回、春もだめ、秋もだめ、次の年もだめといって、次の年の秋ぐらいに「イエス」となって、外国から見ると何でこんなつまらないことを日本政府はいつまでも決めないんだと、これは先進国の七不思議みたいなところがあるんですね。
 どうしてかと思うと、例えば次官会議に何か出す、そうすると「ノー」という人が1人でもいれば絶対決まらないわけですよね。そういう政治システムになっている。例えば、自民党でもついこの間まではコンセンサスがないと決まらない、多数決で決めたって、それは独裁だと怒る人が出てくるわけですね、そういう風土というもの。そして、行政一体の原則みたいなものがありまして、今日のとか経過を見ると、いろいろ問題を提起されているのに、どこかの行政が責任取ってこうだというようなものはないわけですよね。ですから、例えば、厚生省が「これはまずいですよ。」と言っても、通産省が「うん」と言わなきゃ、誰も責任を取らない形が政治解決なんですね。だから、政治解決というのは実は解決しなかったということなんですよ。
 そういうことで今まではきたけれども、日本の行政の強さというのは、行政府が立法府を握っているんですね。実際問題として、立法するのはお役人がやって、それを自民党が認めて、出てくると。ですから、日本の官僚が行政府と立法府の2府を握っているんですね。そこは外国と違うところだなとつくづく思うんですよ。アメリカがものすごく早いのは立法府がパーンと決めるんですね。例えばUSTR、通産省みたいなところが国会の中にあるんですね。
 さっき柳田さんが被害者支援局とおっしゃいましたけれども、この被害者支援局は立法府の中かなと思ってお聞きしたら、行政府の中だというご返事でしたが、アメリカの場合は行政府も局長以上はみんなポリティカル・アポインティーで連れてきちゃうわけですから、行政府にあっても政治の意思が働けば容易に決定できると。日本の行政官が2府を握っているという前提ですね、そこに穴を開けると。例えば被害者支援局みたいなものも、行政の中につくったのではまるっきりだめだと思うんですよ。外につくって発信する。それを受け取るかどうかは政治に任せるべき話なんです。今の日本の行政は明治以来官僚内閣制が牢固としてあるわけですよ。だから、行革なんかでもなかなかできないというのはそこがあるんですけれども、こういうクイック・リスポンスというか、即何かしなくてはいけないというようなものは、行政の中に置いたのではだめだと思うんですね。置いた行政の中でごちょごちょやっているから50年も経っているんです。
 ですから、柳田さんのヒント、被害者支援のセクションというのを外に出して、もうちょっと各省ににらみがきくとか、そういうものにすべきだと。そういう視点で見る必要があるのではないかなと。そうじゃないと、私も何十年か記者をやってきましたけれども、行政を動かすということはものすごく大変なんですね。小泉さんぐらいに強くなると恐ろしいから、みんな言うこと聞くかもしれないけれども、大体動かないんですよね、大臣が言ったぐらいじゃ。ですから、そういう新しいシステムということを提案してみたいなと思います。

○有馬座長 ありがとうございました。

○柳田委員 ちょっといいですか、1分で済みます。行政府か立法府かという問題ですけれども、NTSBは大統領直属の第三者機関的な性格を持っているところなんですね。だから、形式的には行政府であっても、運輸省に対しては立法府的な役割も果たせる、そこに勧告・立案できる権限があるんですね。そういう日本と違う行政上の特殊性があります。

○有馬座長 丸山委員。

○丸山委員 きょうの事務局のレポートに即して申しますと、最初のお話で、予防とか防止ということでどういうようなあり方が望ましいのかということだったわけですけれども、被害を起している原因ですね。先ほど地球温暖化、炭酸ガスという問題なんですけれども、水俣病事件では昭和31年秋の段階では魚介類の中に有毒物質があるということがわかったわけですね。その時点で漁獲を禁止するなり摂食を極力抑えるような対策を取ったら拡大しなかったということですね。魚介類の中にどういう毒物があるかというのはわからなくても、魚が原因だと。そしたら、まず対処することはそこだったのではなかろうか。ところが、その第一の段階で失敗したと言いますか、湾内の魚が全部有毒化している証拠がないから、禁止できないと。湾内の魚を全部とって、有毒化を実証したら、湾内の魚はいないから、それはそれでいいんですけれども、そういった理屈で漁獲を禁止しなかったということが一つの失敗です。
 次は、有毒物が何であるかということについて、工場の排水の中に含まれている有毒物であるという蓋然性というのは非常に高くなった。もちろんマンガンとかタリウムとかセレンとかいう説があって、有機水銀にたどりつくわけですけれども、工場排水に原因物質が含まれているという蓋然性が高くなった段階では、拡大を阻止するためには工場排水をストップさせるということが何よりも緊急に必要だったわけですね。ところが、その点で研究者も惑わされたと言いますか。有機水銀にたどりついても、どういう有機水銀なのかと、厳格な化学式が確定しないと原因物質確定とはならない。
 それが確定するまで原因未確定だということで防止策を講じなくていいのかどうかということですよね。結局、研究者もそっちの方に誘導されてしまったと言いますか、対策は、有機水銀、工場から出ている蓋然性が高いというところまでなったら、どうしたらいいかということははっきりしていたわけですけれども、それをやらないで引き延ばしたと。ですから、こういう公害問題で原因とは何であるか、どういうところがわかったら原因として対策を講ずるべきかということが教訓としてあるかなと思うんですね。
 それから、きょうのレポートを聞いていますと、基本的にこの時期は通産省の強い意思がずっと働いていたということがはっきり裏づけられました。チッソのアルデヒド工程は操業を停止させないと。これは基底のトーンとしてあって、そのためにアルデヒドの工程から有毒物が出ているといった確定はさせないと。厳格な意味での原因未確定というところに引き込んで、それをとにかく長引かせると。その基本的なねらいというのが流れていたために、結局それに引きずられてしまって、最終的には34年の末の患者補償、漁業補償で水俣病事件は一件落着と。後から見舞金契約については否定されるわけですけれども、一応補償問題は決着がついて、水俣病問題は終わったということになってしまった。
 原因についても工場排水の規制の問題についても、これは残された課題であったんだけれども、補償問題が解決したからこれで終りというようなことで、34年の終りで水俣病事件は終わったということで、結果的には5年間の暗黒の時代が患者の立場からするとあるわけですね。そして、40年に新潟で第2の水俣病が起こったから、改めて表出したということなんですね。歴史に「もし」ということはあり得ないわけですけれども、もしも新潟に起きなかったらどうだったのかというと、慄然たる気分になるんですね。まあ、結果的には新潟の場合と一緒に、原因者を政府が公表するということになって今日に至っているわけです。
 そういう過程を見ると、被害者が表出してこないと行政はなかなか対応しない。これは不幸なことですけれども、この事件もそうだし、いろいろな事例を見ていると、表出しない限りは何ら対処しない。だから、座り込みもなくなった、漁民の抗議運動もなくなったということで、補償問題で終りということで、先ほど言ったようなことに、残された課題はあったわけですけれども、対処をしないまま終わった。そういう意味では、行政のこの間の対応を見ていますと、何か訴えられてきたら受けて対応せざるを得ない。それがなければ放置すると言いますかね、能動的行政と言いますか、積極的にこれは国民の生命を守るためにはやらなければいけないんだというようなことで、被害者が言ってこようがこまいがやるべきときと言いますか、分野というのはあると思うんですけれども、そういう姿勢が全く見られない。これは今後どうすべきかということと結びついて大事な点だと思うんですね。
 きょうの事務局のレポートとの関連ではそこら辺を強く感じます。

○有馬座長 ありがとうございました。
 まだご発言いただいていない方がお2人おられますので、まず亀山委員。特に亀山委員にお聞きしたいことは、先ほど柳田さんも言われたけれども、責任という問題では裁判でもはっきりしていますね。裁判というものと今日議論しているものとの関係とか、それ以外のことでももちろん結構でございますが、私としてはそこをお聞きしたいと思っていました。

○亀山委員 今、ご指摘の点自体は柳田委員が言われたとおりだろうと私は思っております。責任という点から言いますと、裁判だって非常に限定された責任の追及なんですね。全面的な責任の追及ではない。それでも一応責任の追及にはなるんですが、それとは別個の観点からなぜこういうことが起こったかという検証。その検証というのは、次にそういうことを起こさないためにする検証なわけです。これが主体となるべきだということは私も全くそのとおりだと思います。
 ただ、日本の社会の風土からしますと、誰が悪いんだという責任を明らかにしないと、心境の奥底でみんな納得しないというところもあるんですね。これはいい悪いといっても始まらないことなんですね。ですから、そういう観点から言いますと、裁判ですらいつも批判を被る。本当の原因がわかっていないじゃないか、そこまで追及していないじゃないかと。裁判は裁判で本当の原因まで追及できるような仕組みになっていないのですけれども、やっぱりそこに不満が起こる。それから、先ほどありました少年審判でもそうなんですね。やはりそういうあれがいろいろ起こってくる。それは、先ほど被害者側の立場でおっしゃいましたけれども、少年側の立場から立っても同じことなんですね。
 ですから、限界はあるんですが、いずれにせよ責任問題というのは裁判に任せておけばいいというわけにはいかないので、やっぱりどこかでやらなければいけないのだと私は思っております。限界はありますけど。ただ、それは、今言いましたように、そういう風土があるので、そこらあたりも一応けじめをつけておかないと、肝心の提言の効果が少なくなってしまうということがあるんだろうと思うんですね。そういう意味では、どこに責任があったんだということもある程度は考えてなければいけないのではなかろうかと思っております。
 それから、今日のいろいろなご指摘の中で全く同感だと思ったのは、柳田委員が32年の5月の時点が一番重要なのではないかと。5月と言いますか、このあたりの時点ですね、8月ですね。そういうことで私も全く同感なんです。ここで何か手が打てればその後の被害の拡大というのはとまっていたわけです。それでは、なぜ厚生省がそこで手が打てなかったか。手が打てなかったのは、法律的な限界があったのか、あるいは、適用上の限界があったのか、そこらあたりのことが一番問題ではないだろうか。その後の問題は割に単純なんですね。通産省はともかく企業と言いますか、産業を保護しなければいけないということを第一義にしてやっているんですが、食品衛生法の問題というのは、そうではなくて消費者一般のことを考えているはずなんです。
 ところが、それを所管する厚生省がどうしてこの時点で適用できなかったかということはもうちょっと詰めて考える必要があるのではなかろうかという気がいたします。これはこれから詰めて考えていただくことなんですが、私なりに考えますと、一つの大きな要点はこういう強制的な権限、大きい権限を振るうと必ず反動がある。その予想される反動を個々の行政官が背負いきれるかという問題があるんだと思うんですね。例えば、この食品衛生法の問題だって、疫学的にいうとほぼ間違いなく魚を止めれば何とかおさまるという見通しはついたんだろうと思うんですが、止めたら一体どこにどういう影響が起こってくるのか。そして、そこからどういう反撃があって、国の責任を追及されたらどうなるんだということがあったのではなかろうかという気がするんですね。
 そういうことを今後起こさないためには一体どういうことを考えなければいけないか。先ほど柳田委員が2つとも指摘されたんですが、1つには行政官の資質と言いますか、考え方の問題もありましょうし、もう1つは組織的な問題。そういう重荷をどこかですっと背負える、そういう組織を考えなければいけないのではなかろう。そういう感じがしております。ですから、被害者支援局というふうにおっしゃいましたけれども、それでもよろしいし、組織のあるところは行政もどこかがそれを後押しするなり拾い上げることができるんですが、組織のない人を拾い上げることはなかなか難しい。だから、その組織のない人の声を拾い上げることのできるような組織をどこかでつくらなければいけないのではなかろうと思っております。そうでないと、今までどおりの各省庁が担当しているものが一番重要だと。それはもちろんそうなんですけれども、そういうことの中に流されてしまうのではなかろうかという気がしております。
 それから、それと関連してですが、そういう組織をつくった中で一つ重要なのは、やっぱり原因の科学的調査というものをもっと早期に徹底的に強力にできる、そういう仕組みを考えるべきではなかろうかという気がするんですね。この三十二、三年ごろでも、あるいは水質2法ができた34年ごろでも、もっと徹底的な調査をしたらできるような法制度ではなかったのではないかと私は思っているんです。しかし、実際にできにくい。だから、そこのところができるような、例えば、現在で言えば災害調査とか事故調査なんかはそういうふうな仕組みがある程度強力にでき上がっているわけですが、そういうふうなことをもうちょっと考えるべきではなかろうか。
 とは言っても、こういう種類のものは専門分野がそれぞれ違ってきてしまう、起こった事柄の内容によって。だから、常設的な調査委員会というのはなかなか難しいと思いますが、いつでもそういうものを立ち上げられるような仕組みを、そしてそれが強力な調査権限を持つと。この資料を読んでいますと、排水が採取できないからとか、工場に立ち入ることができないからとか、いろいろ言っておられますけれども、こんなことはできないはずはないと私は思うんですね。それがちゃんとできるような仕組みを考えるべきではないかと。
 それからもう1つ、これに即して言いますと、有機水銀説に落ちつくまでの間にいろいろな科学的な原因説みたいなものが出てきております。なぜこういうのが出てきて、その後どういう評価がされたのかと、そういうところの検証も必要なのではないか、少なくとも私は知りませんので、教えていただきたいものだとい気がしております。
 今のところ以上です。

○有馬座長 大変ありがとうございました。
 事故調査がなぜできなかったか、それから深めることがなぜできなかったか、私も大変気になっていることでありまして、少なくとも関係者、議事録でいう科学者だけであれば、熊本大学の学長と東工大の研究者との間の意見の相違というのは第三者できちっと調べることができたんですね。ですから、もっと研究者がきちっと組織を早くつくればよかったなということが1つ。
 そしてまた、工場の中に入れないと言ったということに対して、今まさに亀山さんがおっしゃったように、もう少し調査権を与えてもらえなかっただろうか。少なくとも排水の一部でも取り寄せることはできなかったのか。そういうことがなぜできなかったということは私も非常に不思議に思っております。少なくとも原因の調査の中で、それこそ客観的にやれる科学的な面は、もうちょっと早い段階で組織的に進められればよかったなと思った次第です。
 それからまた、ここにもっぱら医学系の人が入っているんだけれども、農水産省的な、漁業的な面での突っ込みがもっとあってもよかったのではなかろうか。この辺についてはまたいつかご議論賜りたいと思っています。
 今の亀山さんのご意見、大変ありがとうございました。
 最後に、吉井委員、現地でご苦労なさった立場からこれについて掘り下げていただけますでしょうか。

○吉井委員 私は公務員の、特に中央官僚の使命感、あるいは価値観という面から見てみたいと思います。関西訴訟、それから最高裁が問題にした国の責任は、排水の規制をしなかった、漁獲禁止をしなかったという点でありますけれども、そのほかにもたくさんの問題があります。その1つに重大な過ちと言いますか、メチル水銀の曝露の範囲、いわゆる住民の健康診断、健康調査、毛髪の水銀調査、こういうのをやらなかったということが非常に大きな混乱の原因になっていると思います。前回の会議で柴垣課長が説明されましたが、43年以後曝露がないと。そして、今、申請されている方々も体内に水銀が見られないと。それで、申請者の症状が果たしてチッソの排水に起因するのか、非常に判断が苦しいということをおっしゃいました。それはまさにこの時期にそういう基礎調査がなされていなかったということであり、今、環境省が悩んでおられるのはまさにここにあるわけであります。
 ところが、国は全く反対のことをやったわけですね。「もう水俣病は終わった。」と34年ごろから言われ出したんですけれども、それを利用して、厚生省は食品衛生調査会の水俣食中毒特別部会を有機水銀中毒説を中間報告で出したとたんに解散してしまった。そして、関係省庁による水俣病総合調査研究連絡協議会というのをその後結成しますけれども、これも有機水銀説にアミン説をぶっつけて、それでうやむやにしてしまったということがあります。水産庁は原因究明を断念するし、水俣病研究を打ち切っております。それから、熊本県もせっかく始めた毛髪水銀調査を3年間でやめてしまった。こういう全く反対の方向に進んでしまった。世界に類例がないという公害が日本に発生した。日本はそのすごい公害の原因すべてを究明して、人類のために役立てなければならないという使命をここで放棄してしまっているわけですね。それは地元水俣に「もう水俣病は終わった。」という空気がはびこったからであると思います。
 水俣は水俣病が発生してから、それから34年、この間の混乱はすごいものがあります。平和な村にすごい混乱が持ち込まれたわけであります。特にチッソが33年に排水口を水俣川河口に変更した。ところが、水俣川河口に魚がいっぱい死んで浮かんで、患者がその周辺に発症して。そこで県下の漁協の皆さんが大変な抗議を始めた。特に衆議院議員が水俣に調査にお出でになるわけですけれども、それを機会に2,000人規模の大デモをやったわけです。ところが、このデモが度を越して暴動と言いますか、暴力化してしまった。会社の中を打ち壊してしまった。このことはすごく大きな失敗だったなと思います。それは、市民がみんなこの漁民、患者が水俣を壊すんだ、チッソをつぶしてしまうという危機感を持った。そこで、その人たちに嫌悪感、反発というのが起きて、ここから患者の中傷、非難、差別化が始まっていくわけですね。
 そういう状態の中で追い詰められて、チッソと患者互助会の間で見舞金契約というのが結ばれます。そして、サイクレーター、浄化装置ができました。そこで、市民はもう水俣病はこれで終わったなと、海もきれいになるなという安堵感を持つわけですね。そして水俣病問題は終わってしまう。その見舞金契約というのは、後に第1次訴訟で信義則に反する、公序良俗に反するものだというふうに切って捨てられたわけですけれども、これは県も市も関係しておりますし、国もそれを監督する立場にあるわけですが、誰もそのことに気づかなかった。そういう思いをしなかったのかというのが今すごく不思議であります。これはマスコミでも取り上げられていない。マスコミはむしろそれを理由にそれ以降ほとんど水俣病の報道をしていない。人権とか人命、あるいは被害者、そういうものを論議する雰囲気がなくなってしまったんですね。
 そのことで、行政は議論しないでもいいという形になったのだろう、むしろそれを利用したと言ったら失礼にあたるかもしれませんが、そういうことがあったと思います。そして、安賃闘争、労働争議が起きます。そのことで完全に水俣病は忘れられてしまったと。そういう水俣の地元のフィールドがあったために、行政は対策をしなかったというふうに考えられますけれども、私はむしろこのことを国は望んで、これを利用したと勘繰っているわけであります。というのは、裁判での証言や国会答弁を見てもわかりますように、チッソはすべて通産省を頼りにして、これを防波堤にした。通産省はご存じのように経済発展のためにチッソは推進的な役割を果たしていると、これを擁護いたしました。工場内の排水を採取できないようにしたり、法の解釈、権限をフルに使って、チッソが原因企業と断定されるのを阻止しようと企てていたわけでありますから、ちょうどそのときに空白時代が起きたということだと思います。
 失われていく人命ということはほとんど眼中になかったと思います。それは、この資料にありますように、当時、秋山通産省軽工業局長が言っておりますけれども、本州製紙の江戸川工場の排水を漁民の反対で止めました。それは科学的な因果関係はほとんど不明だったわけですね。すぐ止めている。しかし、チッソの場合は科学的因果関係が不明だから操業停止もできないし、排水の規制もできないと。こういった全く矛盾したことを一、二年の間にやっているわけですね。これは非常に問題だと思うんですね。それを説明するのに、チッソと製紙会社は日本の経済的影響を考えると比較にならないと、こういう比較論を打ち出しております。しかし、私たちはそうじゃないと。公害の比較というのは、それが人命あるいは健康にどう影響を及ぼすかということで比較をしなければならない。そのことが完全に抜けているわけですね。
 これは本当に驚いてしまうわけですけれども、厚生省や関係省庁も公務員は法律に従って行わなければならないというのを楯に、やらない方向に、批判や責任問題が起きない方向に、身の保全の方向に汲々としているのが見えてくるわけですね。例えば、当時の高野厚生省食品衛生課長は、食品衛生法の規制の問題で、熊本県の問い合わせで、これを拒否しておられますが、その答えの中に非常におもしろいのがある。「幅の狭い解釈かもしれないが、私は食品衛生法を守る立場であった。魚は一般の人の食品に供されるというとき法の対象になるのであって、泳いでいる魚はとるなという権限はない。適用は正しかった。公務員は法律の番人だから仕方がなかった。」と、こういうふうにおっしゃっております。そうかもしれません。しかし、法に従い、法だけで動く、そういう行政の欠陥というのが浮き彫りになっていると思います。
 多くの人々が生命を落としているという非常事態の中で、官僚は法の解釈だけで、それを至上命令として、国民が死んでいるのをただ見ているということ。これはどうも私たちには理解できない。法律は国民の生命、安全を守るために制定されていると。食の安全を守るという法律があったけれども、その法律を守らない方向に解釈されたために、水俣病は、法律から見放されてしまったというふうに思います。「公務員は法律の番人である。」とおっしゃいましたけれども、それ以前に公務員は国民の生命、安全を守る番人であろうと。その視点、使命感というのが抜けていた。公務員の基本的な使命感、価値観に問題があると思います。
 各省庁の責任者の証言を読みますと、各省庁間で権限を超えない、あるいは、権限を冒さない、泥を被らない、自分の責任期間を無事に過ごす、こういう態度が見え見えであります。問題を徹底的に究明していくという意欲は感じられない。このことがすごく残念に思って、これを読んでいるところでございます。人の生命が冒されるときは何よりもまずその原因を取り除く、このことが理屈を超えて一番大切だろうと思います。通産省の経済発展、あるいは、企業経営の合理化・健全化に一生懸命頑張られる、このことは当然であって、これは敬意を表したいと思うわけであります。それはそうあってもらいたい。しかし、その中に、生命はそれよりも優先するんだという認識が必要だと。それから、公務員は法律によって行動する、これも当然であります。しかし、法律は国民の生命、安全を守るためにあると、わかりきった認識、このことをしっかりと持ってもらわなければならないのではないか。資料を読んでそういう思いをいたしました。
 では、どうするのかということですけれども、私はこの一連の水俣事件を読んでいますと、最終的にはトップに行きつくと、トップのあり方というのがすごく大切だと。通産省の不可解な行動も当時の池田通産大臣の姿勢から来ていると思います。トップというのがいかに大切かということがこれでわかると思います。屋山先生が「官僚は大臣の言うことは聞かないよ。」とおっしゃいましたけれども、このときはすごく聞いているんですね、通産大臣の言うことを。これで決まっているわけです。あれは非常に大切だと、このあたり、トップは倫理観を大切にすべきだと思います。
 それから、内部の検証を徹底的に行わなければならない、このことについては後で論議になると思いますので、譲ります。それから、先ほど法律に従ってやるのが公務員だとおっしゃいましたが、確かにそうで、この水俣病の問題でいろいろ言われておりますのは、科学的知見が十分でなかったということが1つ。それから、法律に従ったというのが1つあります。川口大臣も関西訴訟を上告する理由の中でそのことをおっしゃっております。しかし、排水が科学的知見が十分でなかったと。けれども、実際としては排水の付け替えで完全に水俣工場の排水だということは実証されているわけですね。それから、魚も、先ほどおっしゃったように、科学的知見を超えて、水俣の魚を食べて発病するというのは誰も疑わなかった事実であります。その事実を大切にしていくということがなければならない。そういうふうに思います。
 法律を守る、それも大切ですけれども、法律が予想していない事態が起きます。それから、法律の解釈が実態に沿っているかどうかということの検証が必要だと、そのように思います。1992年にブラジルの国連環境サミットで、「重い取り返しのつかない被害の恐れがあるとき、完全に科学的確実性がないことを理由として環境の破壊を防ぐ対策を延期してはならない」と宣言いたしておりますが、まさにそのことが日本の行政に問われていると思います。予防原則の確立です。これをしなければならない。先ほどおっしゃいましたように、失敗したときはどうするのか、官僚の責任はどうするのか。このことについても、その確立の中で救済をしっかりとする、予防原則を実施した場合、もし間違った場合はどうするんだということもちゃんと決める必要があると私は思います。
 そういうことで、これは問題は環境庁の責任だと思います。環境庁がそういうことをしっかりと決めて、他の省庁に勇気を持って言える、たださせる、そのための官庁ではないかと思っております。
 以上です。

○有馬座長 ありがとうございました。
 ちょうど時間になりましたので、まだご議論を続けていただきたいところでありますが、次回に回させていただきたいと思います。
 また、きょうはかなり重要なご発言がたくさんありましたので、事務局で整理していただきまして、次の懇談会でさらに議論を深めさせていただきたいと思います。

○加藤委員 すみません、資料の取扱いについて。きょう事前に委員に配られた資料の中で、「熊本県知事 寺本広作 ある官僚の生涯」という資料が配られたんですけれども、これは見舞金契約のこととサイクレーターのことが、当時の知事にも要するに情報が十分入っていなかったし、やむを得なかったという部分も含めての資料だったと思いますけれども、実際に私はこの資料を全く知らなくて、地元の図書館とか水俣病センター創始者も、考証館とかも調べたんですけれども、どこの何だか最初わからなかったんですね。資料を取り扱うときにはきちっと出典を明らかにしてほしいのと、それだけであれば、冒頭で公害の政治学のことについての批判に及んでいたりとか、そういうものが入っているのをこういう委員会で使うのはどうかなと思いまして。この部分はほかの資料でも使えるんじゃないかなと思うんですね。水俣病に関する社会科学研究会の報告書の『水俣病の悲劇を繰り返さないために』の中にも使える資料はあったような気もいたしますので、あえてつけ加えさせていただきます。

○柴垣企画課長 今の資料につきましては、事前にお送りしたんですけれども、委員会の参考資料で出すのはあまり適切ではないという判断をしまして、今回は配っておりません。そういう意味で混乱があったことはおわびいたします。すみません。

○加藤委員 はい。突然配られてきたし、意味がよくわからなかったので。

○有馬座長 それでは、その点も含めて次回ご議論賜ることにして、事務局から今後どう考えていくかについてお話しください。

○柴垣企画課長 二点だけ追加させていただきます。今日のご議論は前回提出させていただいた懇談会のスケジュール等に沿って、今の吉井委員のご発言にもありましたように、歴史上の問題というよりは、現在の被害救済問題につながっている問題も含んだものとして、この時期を選ばせていただいて、資料をつくらせていただいたということでございます。地域社会の中で、水俣病の終息化ということで問題が蓋をされて、患者の声が非常に上がりにくくなってしまったということ。それが5年も8年も続いたということは、いまだに声を上げている方がおられるということの原点と言いますか、背景としてあるのではないかということも含めて、また先ほど吉井委員が言われた健康調査と言いますか、水銀曝露調査を適切な時期に行えなかったということも含めて、行政として問題が終息化したことの上にあぐらをかいたと言いますか、そんなことも含めてこの時期を検証していただいたということでございます。
 それからもう1点、亀山委員がおっしゃった32年の食品衛生法の問題、今回の証言調書を調べる中でその問題にも当たりました。その中で、漁業補償の問題が、さっきも大きな反動というふうに言われましたけれども、食品衛生法を適用することによる漁業補償をどうするかということを、国と県でボールを投げ合ってみたいなことがありました。その結果は原因の究明がチッソに近づいた段階で、チッソによる漁業補償ということで34年の段階で決着したこともございまして、32年段階での食品衛生法の適用に関する証言は今回割愛させていただいたということでございます。
 次回の懇談会でございますけれども、参考資料5にありますように、こういった歴史の問題の帰結としての現状の問題ということで、丸山委員からご発表いただくということで、11月28日、月曜日、同じ時間にこの場所でということで予定させていただきたいと思います。
 それから、参考資料5には次々回も、2つ選択肢をつけさせていただいております。日程をいろいろ聞かせていただいておりますけれども、まだどちらか決まっておりませんが、今からおとりいただければと思います。
 以上でございます。

○有馬座長 どうもありがとうございました。
 それでは、きょう予定しておりました議事はすべて終了いたしましたので、予定時間を7分ほど超えましたけれども、以上をもちまして、水俣病問題に係る懇談会の第5回を終了させていただきたいと思います。
 また、次回よろしくお願いいたしたいと思います。
 大変活発なご議論ありがとうございました。

午後3時07分 閉会