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第3回水俣病問題に係る懇談会
水俣病関係団体からのヒアリング[2]
会議録
 


平成17年7月21日(木)16:30〜17:10

於:米ノ津公民館「漁村の家」

午後4時37分 開会

○柴垣企画課長 それでは、出水の会からのヒアリングを始めさせていただきたいと思います。
  それでは座長、お願いいたします。

○有馬座長 有馬朗人でございます。今日は皆さん、暑いところをお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。特に、水俣病出水の会の皆さん、今日は本当にお忙しいところおいでくださってありがとうございます。
  皆さんの御意見を伺いまして、参考にさせていただきたいと思っておりますが、まず、団体の方に15分ないし20分程度お話を伺った上で、私どもの懇談会側から15分くらい御質問をさせていただきたいと思っております。
  では、どうぞよろしくお願いいたします。

○尾上(水俣病出水の会) 今日は、本当に水俣病出水の会のために水俣病問題に係る懇談会の委員の先生たちに、本当にこの蒸し暑い、猛暑の中、足を運んでいただきまして、今日は会を代表いたしまして、ありがとうございます。
  それでは、活動報告書をまず座長の有馬さんに渡したいと思いますので、報告をいたします。
  水俣病問題に係る懇談会委員、座長、有馬朗人様。
  活動報告書。
  本日は水俣病出水の会設立から今日まで活動について説明の要望がありましたので、活動報告をさせていただきます。
  昭和47年、父が水俣病に認定され、平和会に加入した時点で始まります。当時の平和会は認定者のみ加入させ活動しておりましたが、その活動では本当に水俣病で苦しんでいる人たちの救済はできないと思い、認定申請の手続から始めました。実際、手続を知らない人たちばかりで、まず認定申請手続に必要な診断書を書いてくれる先生方を探すことから始めました。
  昭和48年から水俣病診断依頼は別紙のとおりです。
  昭和48年に三木長官に各団体が要望を上げ、認定者の念願だった国立水俣病研究センターが昭和53年9月に完成しました。ですが、水俣に事務所を置く団体を始め、水俣の医師会、葦北郡の医師会までが、理由は定かではありませんが、施設の利用をボイコットし始めました。そして、その年の12月、当時の鹿大井形教授や、大勝助教授から出水の会の認定者の方々に国水研へ行ってほしいという相談を受け、会員の方にお願いをし、61年までに1日5名ほどの割合で認定者160名、新規申請者(観察者)20名、計180名の利用診察のサポートを行いました。
  国水研に出水の会は惜しみない協力を全面的にしてきました。申請のための診断書を取るのにも同行し、また、出水市の市立病院で検診内科がある日は毎回のように同行し、県の担当者とも面談していました。その間も鹿児島県、熊本県と年に3回から6回と来庁し、患者の救済を訴えてきました。
  ところが、平成7年に行われた政治解決策のときには、水俣に事務所を置く5団体にだけ団体加算金が支払われ、出水の会は除外されました。このとき、出水の会の代表として、私は言葉では言い尽くせない屈辱を受けました。到底、私はこの解決策は納得はできず、平成7年9月30日、当時の大島長官が水俣を訪問した際、抗議をしました。そのとき、長官は別枠を組み善処するように言い、私もその言葉を信じ、その後何らかの報告があるものと思い待っておりましたが、なしのつぶてでありました。その間もいろいろな陳情書の提出も行い、回答も待ちました。今でも、何ゆえ出水の会が除外され、平成4年に設立した会が認められたのか、何を基準に5団体のみの加算金が支払われたのか不思議でなりません。
  現在において、別枠についての回答も頂いておりません。当時、出水の会には、認定患者70名、解決策のときの医療手帳交付者260名の計330名の会員がおり、会員の方には本当に申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。そうして、納得がいかず、環境庁で座り込みもし、裁判も起こしました。一切、聞き入れてもらえませんでした。解決策後、平成12年に胎児性の水俣病の男女2名の認定者の救済も行っております。水俣病正式発見から50年を迎えようとしている中にもかかわらず、何の問題解決の糸口さえ見えていない現状で、国の出した医療費全額負担の手帳だけで、出水の会会員は全員納得ができません。行政責任として、何一つ対策をとっていない。50年に対する行事を計画しているが、この問題の解決なしで水俣病事件に終わりはない。
  平成17年7月21日。水俣病出水の会、会長、尾上利夫。

○有馬座長 どうもありがとうございました。
  それでは、懇談会のメンバーの方から御質問ありませんでしょうか。
  どうぞ。もうこれで御説明は終わりでしょうか。

○尾上(水俣病出水の会) 私の方から、座長の有馬さんを始め委員の方々に訴えたいのは、環境省が4月4日に事前に説明に来て、4月7日に大臣が発表した、今後の対策としての医療費の全額支給の保健のついた手帳では、到底納得はいきません。大阪に住んでいる訴訟の原告団の分が大阪高裁の判決で、これはとにかく感覚障害、あるいは家族に認定患者がおる原告は感覚障害だけで水俣病と認めたんですよね。
  最高裁もメチル水銀中毒症というこれを追認したんですよね。認めたんですよね。だからこのメチル水銀中毒症というのを最高裁も認めた中で、この保健手帳だけで水俣病の線引きをやって、医療費全額支給の保健がついた手帳だけでこらえてください、今回はもうこれで行政としては精一杯だと。我々出水の会の会員は1,200名を超しました。鹿児島県600人以上、熊本県ももう600人になります。その中で、我々は保健がついた手帳だけでは、どうしてでも拒否、突っぱねていきます。何とかこの国を動かすような先生たちの本当にぬくもりのある心で我々を救っていただきたい。
  これは、本当、裁判をやったらもう終わりのない、本当に闘いになっていくんですよね。裁判をやったら本当はっきり言って、熊本県の潮谷知事が言っているように、審査会を開いても何もとにかく棄却していても、あとは裁判に持っていかれたら、また認定になってくる。何のための審査会かということで、潮谷知事はその国の判断を批判していますね。板ばさみとか。だからこの司法の判断と国の判断では、もう本当に開きがあるし、とにかく感覚障害だけで、私は水俣病として認めていいのではないかと。それで解決策のときのあの260万の線引きは何だったのかと。あれは私は最低限の認定という線を引いたと思いますよ。私はあれは感覚障害だけの者に対して260万の一時金を払うという最低限の認定だったと思います。そういう解決策のときの感覚障害だけで260万の線を引いた、これを今回も取り入れていただきたい。また、症状がある人はこれは当然認定をしていただいて、救済していただきたい。
  資料の別紙の中にもあるように、へその緒の水銀値を赤木先生にお願いして測定してもらい、3.25、2.5という数値が出ており、この数値の者は兄弟2人胎児性で、現在鹿児島県で保留になっております。私の方は平成13年度にこの会場で掘り起こしを80人やったんですよ。原田先生と研究会の津田先生を呼んでですね。その80人の中で一人が保留になっており、その者がここに来ております。これは現行の認定制度で一日も早く認定していただきたい。これはもう特に滝澤部長にもお願いしておきます。その中で、もう本当、手帳だけでは本当納得がいかない。できれば私たちも裁判はしたくない。しかし、手帳だけではどうしても争っていかないと、手帳だけでは生活ができませんから、手帳だけではこんな病弱になった体の人たちが手帳だけで生活はできんです。今日は十分先生方に、皆さんの声を聞いていただきたい。
  それで、今日は水俣病の歴史の中で何十年と不知火海の沿岸からざいの方まで、水俣病のそういう実態を調査をして、診察をし、津奈木の松本開業の医院長も見えております。この医院長はもう本当に地元の水俣病そのものを取り上げて、何十年と救済してきた医院長でありますので、この医院長の説明も聞いてください。
  医院長、よかですか。
有馬先生、よかですか。

○松本医院長 昨年10月15日の関西訴訟判決以降、私の病院へ全国から千数百人の人が水俣病申請に来ています。これは一体どういうことなのかと、多くのメディアの人が聞いてきました。しかし、その中で私はわかりませんとしか答えられませんでした。
  ようやく申請も軌道に乗ったころ、フランスのルモンド紙のアジア支局長、フィリップ・ポンス氏に会いました。よく水俣病を勉強しておりまして、的確な質問に驚かされたわけですけれども、何よりも自分の目で見たいという徹底した態度にびっくりいたしました。見なければわからない。当たり前のことですが、日常生活の中に埋没されマスキッドされてしまった水俣病だけ見て、真の水俣病の問題を知らない、水銀の被害に直面した人たちがその体の不自由さを抱えながらどんな日常生活をしているのか知らない。
  実際、私のところへ来る水俣病取材の記者たちがそうで、私がその人たち、5、6人を2、3の患者のところへ無理に連れていて見てもらったら、息をのんでいました。潮谷知事にも判決前から何度も何度も見てくれることをお願いしましたが、結局、最高裁の判決後にやっと私のところに回ってきてくれました。その記者会見では、青ざめて言葉が出なかったそうです。見なければ分からないということです。彼女も福島知事の時代からの副知事で、水俣病のことは知り尽くしていると思っていたに違いありません。水俣病の取材に来た記者たちも記事や写真で、あるいは明水園で見てきて知っているつもりだったのだと思います。
  言葉も「あー」とか「うー」とかしか言えない。指は全部折れ、それがねじ曲がって真っすぐな指は一本もない。中関節も外れてぶらぶらで、肩関節も脱臼している。もちろん、物を自分で口まで持ってはこられない。その上、嚥下障害で一口ずつ飲み込むのを待たなければ次の物を入れてやれない。途方もなく時間がかかるその食事だけでも、交代で2、3人の介護が必要ですが、それだけで生きているわけではむろんなく、排泄、大小便、生理も含めて、それから移動も清拭も困難な着替えも、午前中かかってしまう喀痰の排出も、その他すべてのことが、その父親、母親の仕事で、彼ら自身も70歳をとうに過ぎてよろよろで、それが何と四十数年も続いているような患者が何人かいます。
  一人の患者を隣のおば、近所の家族と3家族で見ている例もあります。介護施設にも一度はやってみても、その都度具合が悪くなって、連れ帰っています。手先、指先の感覚も弱いのでしょうか。折れても特に騒ぐ様子もありません。棄却を前提とした申請制度で再び棄却されていた人たち、あるいは行政の怠慢によって申請もしないまま今日までほったらかしにされた人たちの憤りが、今回の最高裁判決を機に一挙に噴き出したのが今回の再申請の雪崩現象、社会現象であったかもしれません。あるいは、先ほどのフィリップ・ポンス氏の言葉どおり、公害の恐ろしさ、それは人類の生存の可能性も脅かしかねない公害というものの持つ恐ろしさ、その深さ、あるいは地球温暖化にも通じる、または原子力破壊にも通じる恐ろしさではないでしょうか。
  もっともっと行政も痛い目に遭わなければ認識できない底知れない恐ろしいこと、それを公害という、人々はそれに化合したような動きになって出てきたのではないかと思いました。水俣病問題を正しく理解し、それに基づいて全面的解決を図らなければ水俣病はまたしても負の遺産のまま、何の教訓もいかされないままに終わってしまいます。水俣病を本当に解決に結びつけるものは、その現実をよく理解し認識したところから出発しなければ、また、小手先の解決策になってしまうのではないかと恐れます。ここにある視野狭窄症はフェステル氏の視野計に基づいて測定した私の患者さんたちのものです。大体正常では120度ですから、手を広げたぐらいはわかるんですけれども、何とこんなふうな、まるで竹の筒からほかの世界を見ているようなそういう方、それが何十枚となく、持っている人ほとんどそうなんですけれども。
  ところが、それを根堀り葉掘り聞いてもそれが普通のこと、自分にとっては当たり前のこと、正常のこととして日常生活を過ごしております。これを、ああそうですかとほったらかしていいものでしょうか。私はそれをお尋ねしたいと思います。
  今、水俣病の問題を見てもらい、理解してもらわなければこちらの患者からの要望が何であるかも理解できないでしょう。それだけでは、何も生まれてこない。水俣病の本当の解決策は生まれるはずがないと思います。視野狭窄も日常生活でそれで済んでいる分には、それで何事もありません。手が折れても骨折に気がつかない。何か使いにくいと思っても、それで漁を続けている分には問題にならない。私のところにやってきて、やっとそれが骨折しているということがわかるようなことをそのままほったらかしていいのか。そういうことを強く疑問に思います。言葉も「あー」とか「うー」とかしか話せない。話せないけれども意識、感性は非常に研ぎ澄まされています。こういう特徴も水俣病の特性だと思います。特徴ある症状だと思います。皆さん、こういう点にお気づきでしょうか。だが、それだけに逆に非常に悲惨な事件だと思います。
  今回の申請の中でも、特に驚いたことがあります。それはこれまで行ったことのない、それまで見ず知らずの鹿児島県の獅子島から、熊本県の私の病院まで約400人に上る方々が検診に来られたことです。人口が900人ちょっとの中から、400人もの人々が来られたということ、そして、その症状のひどいのにびっくりしました。先日、環境省の柴垣課長が獅子島においでになったときお見せした、水俣から獅子島周辺への海流図がここにございます。この海流自体が水俣チッソから獅子島を直撃しております。水俣から獅子島、それからこっちへ回ってきております。それから出水から米ノ津、出水、蕨島、桂島を通って、こういうふうに流れております。これは時間によっても、こういうふうに同じように水俣から直撃してきております。
  水俣市の土石流の被害者も獅子島に漂着したと聞きました。当然、これらの地域は、水銀汚染の直撃地帯であり、前の桂島の濃厚な水俣病患者発生状況を見れば、この周りも当然ながらこういうことが起こっているだろうということは、推察するに、そんな難しいことではないことだったと思います。
  ところが、10年近くもそれがほったらかされ、全く行政による救済は行われなかったということです。これはちょっとやっぱり国、県の責任の、第2の水俣病事件の問題になるのではないかというふうな気さえいたします。ここでは、平成7年の村山内閣による全面解決案が何であったのか、あるいは今も行われている棄却を基にして始められた、差別を引き起こした申請制度が何だったのか。さらに水俣病患者を見たことのない若い研修医たちが、よく話を聞くと、触ったり触らなかったりすることもあまりなかったと、そういうことをよく耳にします。もう一度検証し直すことも必要ではないかと思います。
  この表を見ていただきたいと思います。
  これは、水俣病の家族の一例です。水俣病一族の水銀漬けの家族で、この人だけが棄却されております。ここだけ、棄却されております。最終解決案が、四肢末梢のしびれを有し、当該地区居住者とするとされているならば、当然、認定されてしかるべき人です。ほかにも同じ区で代々の漁師で、家族内に認定患者を抱えながら、本人だけ棄却された不可解なケースがあります。
  これはおじいちゃん、おばあちゃん、両親たちが認定されているんですけれども、兄弟全部認定されて、この人だけ棄却されております。これは四肢末梢のしびれ、あんたないんかと言うと、いや、それが一番ひどいんですと言うんですけれども、それならその居住歴なんていうものを簡単に分かっているはずですから、なぜ棄却されたのか私には理解できません。
  最終解決案、全面解決案とうたうならば、当然、これらの人は認定されるべきでした。このような解決案であるならば、行政にはこの該当地区の昭和30年から43年12月までの居住者はちゃんと把握できているはずですから、自己申請制度など採らずに、原爆方式と同様、これらの人々を一括対象者とすることもできたのではないでしょうか。そうしていれば、今でも人々をためらわせ、悩ませている申請制度、申請しろと言ってもしませんとか、しますとか、申請した人、しない人とか、補償をもらった人、もらわなかった人とか、水俣病患者、にせ患者という差別の構造は生まれなかったはずです。同じく家族間でも、また、ある漁業部落でも申請する、申請しない、とけんかとなる例など、珍しくありません。今でもそういう漁師部落が存在します。こういったことをそのまま放置して、よろしいのでしょうか。何ら全面解決にならないで、そのまま問題を残していくことになるのではないかと思います。
  当時、まさに村山内閣では、エイズ問題で、史上初めて殺人罪で厚生省の役人や帝京大学の安部英副学長が法廷に引っ張り出されておりました。水俣病問題でも、国・県の責任が裁判で問われようとする、まさにそのとき、法廷に引き出されることを恐れて村山内閣から突如、最終解決案が提示されました。
  その条件として、裁判を取り下げることとした1項がそれを如実に語っていると思います。このような泥縄式の解決案が何をもって全面解決策といえるのでしょうか。今こそ、行政と地元住民が一体となって、真の全面解決を図るべきではないかと思います。
  また、認定制度自身も初めからこれこれの症状を有する者、例えば視野狭窄とか、四肢末梢のしびれとされたのでは、他の知見、そのエビデンスを加えようがないわけです。今日、医学研究の主流となり、数々の優れた業績をもたらしています、エピデミオロジーは全く無視されてしまったことになります。今、水俣病患者を対象とするこのようなエピデミオロジーを施行しようとしても、この数十年の間に我々は多くの患者を失ってしまい、今日ではやろうと思っても施行しようもありません。学問的にも失うものが多過ぎました。ほかにもいろいろ水俣病についての問題は多いこととは思いますが、現場一筋に見てきた者の声としてちょっと話をさせていただきました。
  どうも失礼いたしました。

○有馬座長 どうもありがとうございました。
  それでは、委員の方たち、何か質問がないでしょうか。

○松本医院長 これは診察中に出血させてしまって、その消毒した跡なんですけれども。自分で痛くない、痛くないと言うものですから、ついつい僕も申しわけないことをしたんですけれども、ちょっと出血させてしまった写真の一例です。

○住民女性(水俣病出水の会) すみません、一言いいですか。

○有馬座長 ちょっとお待ちください。こちらからお聞きしますから。
  何か、まずこちらから質問ありませんか。
  鳥井さん、ないですか。
  では、御発言をどうぞ。今の方。

○住民女性(水俣病出水の会) 我々は、このメチル水銀という原爆を味噌汁、煮物、焼き物で飲ませられ、食べされられたんですよね。それをずっと我慢して生きてきたんだ。言葉の虐待、同じ日本人なのに、日本人としての差別、それにも耐え、生きてきたんですよ。真っすぐ手を伸ばすことができないから私はこうやってつかまっています。みんなここにいる人は、泣きながら生きてきたんですよ。わかりますか、それが。
  滝澤部長、あなたは昔医者でしたよね。そしてハンセン病にもかかわりましたね。なぜ医者を放棄し、環境保健部長となったんですか。金の欲でしょうが。それから、柴垣課長、この間獅子島に行き、あの歩けないおじいちゃんを見たとき、自分の父親がああいうふうな体になったとき、あなたはどう思いますか。我々と同じ言葉を発するはずですよ。
  それからもう一つ、胎児性水俣病患者もあなたは御覧になりましたね。そのとき、あの方が自分の姉ちゃんや妹やったら、あんた黙って見逃す気ですか。やっぱり言いたい気持ちになるでしょう。みんなそれを耐えてきているんですよ。わかりますか、それが。我々は一時金、加算金、決してあきらめませんよ。どこまでも食い下がってやる。
  皆さん、聞いてください。滝澤部長にしても柴垣課長にしても、給料とボーナスで我々が要求している700万以上の給料、ボーナスをもらっているんですよ。1年間で。たった1年間でですよ。それを放棄しようとしているんですよ。これを許すわけにはいかない。皆さんも願ってください。絶対許さんと。
  今日は私は立つことができないので、こうやって座っていますけれども、どんなに苦しい目に遭っても、子どもや親に迷惑かけたくないと思う気持ちがあるから、耐えてきたんですよ。柴垣課長、あなたは東京に行ったときに、全部が全部はね、認めるわけにはいかんとやねとおしゃいましたよね。あんたの子どもにこのメチル水銀飲ませていいですか。自分の子どもが、自分の親が、こういう水俣病の原爆の被爆者となったとき、あんたそれで喜びますか。うれしいですか。幸せですか。のぼせ上がるのもいい加減にしなさいよ。はっきり言って、ふざけんじゃねえよと言いたくなるのわかりますか。
  今ちょっと頭の中混乱していますけれども。

○有馬座長 いろいろ御不満はあると思うし、御要望があると。それを今日は聞きにまいりまして、そういうことを今しっかりとお聞きした上で、いろいろ判断させていただこうと思っています。

○住民女性(水俣病出水の会) だから出水の会は一時金、団体加算金、絶対に要求します。

○有馬座長 一応要求書も拝見しましたし、これはしっかりと拝見した上で判断させていただきます。

○住民女性(水俣病出水の会) 今の新規の水俣病患者はにせ者だとかうそだとか、新聞に載っていました。誰があんな馬鹿なことを言うんですか。我々は本当のことを言っているんですよ。

○有馬座長 マスコミの問題もちゃんと判断をいたします。マスコミにはどうぞしっかりとおっしゃってください。
  以上の御発言について、委員の方から何か御質問ありませんか。
  私の方から一つ、伺いたいことが、実はごくごく簡単なことでちょっとわからなかったことがあるんですが、この活動報告書の中で水俣に事務所を置く団体を始め、水俣の医師会、これは葦北でしょうか、葦北郡の医師会までが、理由は定かではありませんが、国立水俣病研究センターの施設利用をボイコットし始めましたということは、どういうことですか。こちらからそちらに行ったらば診療してくれないという。

○尾上(水俣病出水の会) これは三木長官が当時の48年に環境庁長官のときに、水俣の市役所の方と患者団体の方の訪問をしたんですよ。そのとき、私も行って三木長官にお願いして、その三木長官が総理になったときに水俣の国水研が約束どおりに完成したんですよ。53年9月だったですね。水俣に本部を置いている患者団体を始め、これは平和会もそうだったんですが、そのもうほとんどの団体も諸手を挙げて賛成だったんです。ところが、完成したところが、認定患者は一人も行くなと、一人も行っちゃいかんと。あそこに絶対行くなと。患者の団体だけではなくして、医師会までが、水俣の医師会から葦北の医師会までが、ここに今、前の市長さんの吉井さんが委員でいますから。そうでしたですよね。
  これはもうはっきり加藤先生も来て、吉井先生もいますね。当時の吉井市長も、これはもう十分市議から議長まで、それで市長と、吉井さんらも長年市議をやってきとったですから、よくわかっとったですよ。
  だからそういう患者団体、医師会までがボイコットして、それで文書をまいて、一人でも行くなと。そういう中で、鹿児島の井形先生の第3内科の教室の先生たちが、今鹿児島県の行政のこの認定者の検診に当たる先生たちですね。濱田、園田、有村、この有村というのは今第3内科の助教授です。そして吉田、今、鹿児島大学の教授になっております。こういう先生たちが、国水研に4人ぐらい配置されて、熊本大学から一人も入っておらんですよ、先生は。第3内科の先生たちが入って、それで私に相談に来て、何とかこの立派な設備ができたのに、認定者がとにかく行かないというのはおかしいと。温泉もボーリングをして、お湯も出ると。とにかくリハビリの大きい施設もあると。いろいろな当時のコンピューターもあり、とにかくその手足のしびれなどに対応した機具なんかの、もう医療界では最高級のものが入っておったですよね。だからそれでうちに当時の、今の助教授である有村、教授になった吉田、濱田、この君らがうちに来て、うちに5、6人ずつ寄せて、ワゴン車に連れてきて、当時、山内、知ったですね。あそこにいる今係長ですね。これが初代のあそこの職員で入ったわけですから、そこの最初の所長は、黒子さんだったですね、黒子所長がですね。だから、総務課長が環境省から出向して来とった森さん。この人も所長も課長もうちに来て、何とか認定患者をとにかく施設の方にやってくださいということで、当時53年12月に相談を井形先生から受けて、それで54年3月から61年まで私はずっと5、6人ずつ、毎週毎週運んで、これは本当に山内さんがいますから。そうだったですね。
  そういう私が全面的に協力したにもかかわらず、そのときにボイコットをして、一人でも国水研に認定患者をやらんように文書をまいて、ボイコットした団体が、今、みこしに担ぎ上げられて、我々のように協力した団体がそっちのけになり、これでは我々の出水の団体は何を協力してきたのかと。あの解決策のときに私はここの漁協の私は組合長もしていました。鹿児島県4水産団体の2つの理事も持っておりました。その中で私は所用で行けんだった、その中で文書も私は頂いて、それでまた返事も折り返し出しとったですよね。だから、何で私が国水研に一生懸命協力してきたのか。莫大な予算を出して、環境省があの国水研を造ったのに、認定者が一人も利用なかったらあの施設は取り壊されて、それは三木総理は責任問題ですよ。そこを、私がとにかく助けてやったのではないかと。それで、何で出水の会を除外したのか。私の団体も奥さんが平和会、息子が全国連、だんなが私の方、いろいろなそういう親子で入り乱れとるですよ。ここの住吉町の集落は、当時47、8年から現在まで私の方が認定者も今も多かですよ。まあ70人の中で40人が亡くなったですけれども、もう認定者も2,260人の中で、今、生存者は710名になっています。その中で、ここの認定者もおる中で、何で申請者にも我々が手助けを一生懸命やってきたのに、何で団体加算金が除外になって、平成4年に立ち上げた団体に認めたのか。これは本当に私は腹の中が煮えくり返っています。吉井市長さん知っとるですね。大島長官が私に別枠を組ますと言うたんですよ。別枠を組ませるから、私に免じて今日は黙っとってくださいということで、大島長官が私に手を合わせて、こうして拝んだんですよ。
  それにもかかわらず、その加算金は県議会でも取り上げて認めて、鹿児島県も認めてくれたのに、これは国は認めんかったですよね。そこにあるですよね。はがきを頂いたんです。鹿児島県会は県議会でも採択したと。枠組みを見直せと。そういう鹿児島県でも県議会で決めてもらったのに認めてもらえなかった。我々出水の会が私が何十年とやってきたこの実績を、何とか前向きに考えていただきたい、今回は。お願いします。

○有馬座長 よくわかりました。どういうところの問題であるかということがよく了解できました。それから、先ほどの文章で国立水俣病研究センターが、初め使われなかった、なぜかよくわからなかったのが、その辺もよくわかりました。どうもありがとうございました。
  まだまだお聞きしたいと思うことがたくさんありますし、皆さん直接、お話をさせていただきたいことがまだたくさんあると思いますが。
  どうぞ。

○吉井委員 平成7年に決着をいたしました政治解決、これは決して水俣市に籍を置く被害者団体だけを救済するという目的ではございません。不知火海沿岸のすべての被害者を救済するという目的でこれは始められた。また、私も当時水俣の市長でしたので、生きているうちに救済をしてほしいという患者の切実な願い、これをかなえてやりたいと努力をしてきたつもりであります。しかし、当時、尾上さんの団体が存在するということを私は知りません。それは水俣の市長でありますので、出水の事情はほとんど知らなかったというのが1点。
  それから、水俣に存在いたします平和会、出水の会と兄弟の団体ですね。兄弟の団体であるにもかかわらず、水俣の患者団体から、一言もその尾上さんの存在の発言がありませんでした。知る由がなかったわけで、本当に尾上さんには申しわけないと思います。
  その解決後、団体加算金が漏れた、そのことでさんざん私はしかられました。そのことで初めて、尾上さんの団体があったことを知ったわけです。しかし、私の力ではそれはどうすることもできない。当時の大島長官がお約束をされたというのは事実だろうと思います。しかし、努力をされただろうけれども、これは政治決着で政党間で決着をした案件でありますので、政治家が動かなかったというのがあったと。そのように推測をいたしております。
  今後の問題でありますけれども、これは今環境省が救済策づくりを進めております。その中で出水の会を特別ということではなくして、全体の中でそれをどう救済するか、対策を進めていかれるだろうと、そのように思います。
  私たち委員は、具体的にこう救済をしなさいよという権限はございません。専門家でもないわけですので。ただ、救済の進め方、その在り方についてはいろいろ論議をし、そして提言をしていきたいと、そのように思います。
  1つ、私疑問に思っているのは、当時裁判の原告以外の人も、広く救済をしますよということで、皆さんにできるだけ、そういう水銀による健康被害と思っている人は手を挙げてくださいよと。これは大分宣伝もしたつもりであります。出水市ではどうだったかわかりませんけれども、その呼びかけがなかったのか、そういうのが少し今疑問に思っているわけですけれども、そのとき手を挙げさえすればいろいろ救済がされたと思うわけですけれども、その点が1つ、どうも理解ができない部分がございます。どうでしょう。

○尾上(水俣病出水の会) 吉井市長さんとは、吉井市長さんが議長のときから、平成3、4年ごろから水俣病魚介類対策委員会の委員であったし、私も組合長として委員で、3カ月に1回ぐらい熊本県の方で魚介類対策委員会が開かれよったから、吉井市長さんとも、そのときは議長だったんですが、一緒に水俣から電車に乗って帰ってきよったんです。ところが、その中から何年かして市長になられて、だからそういう中で、私は当時の佐藤部長とか魚住さん、後に魚住さんなんて副知事にまでなったですけれども、あの副知事さんとはもう何十年のつき合いで、あの人も非常に残念がって、一生懸命動いてくれたんですけれども、しかしその中で、私は当時のこの平成4年に設立した会というのは水俣漁民市民の会、当時の水俣の組合長の滝下松雄、これが平成4年に立ち上げて、そのときに一緒に行ってくれんかと言って、平成4年に熊本県庁まで行ったんですよ。その新聞も入っとると思いますが、その中で、私がその当時の平成4年に立ち上げた滝下松雄に、私もその水俣の市民の会に出水の会も入れてくれんかとお願いしてくれと言ったんですよ。ところが、当時の水俣の組合長は漁民市民の会を平成4年に立ち上げて、もう組合長とも、この吉井市長さんとも魚介類対策委員会で一緒だったですからね。だからそういう中であのときに平成4年に立ち上げたときに、17人ぐらいですよ、17人。それで加算金が出たときは23名しかおらんとですよ。それで後に60人ということになっとったですけれども、それはもう私とそっちをつないでおったから、当時の組合長は。だから市民の会に私も入れてくれと言うたら、水俣の市民でないと、水俣の市民の会には尾上さん、入れんとですよと。尾上さんら出水だから、水俣の市民の会には入れないと言って私を断ったんですよ。
  ところが、そういうふうに私は断られて、茂堂同志会、これも解決策のときの茂堂同志会の会長の田中正巳ですね、会長。これが何でおれに一言言うてくれんかったのかと。この田中正巳とも私も何十年来つき合いしとったから。だから何で私に一言言うてくれんかったのかと。我々言うたんだと。水俣の市民の会に入れてくれと、とにかく平和会と全国連、連合は水と油だったんですよ。ところが、何十年って水と油で、とにかくだからその中で市長が間を取りもって一緒に平成6年ごろから同行するようになったんですよね。だからそれでその中で、私も入れてくれと言ったら、いや、出水の会の尾上さんら出水だから、水俣ではないから、市民の会に入れんそうですよと、この一言だったんです。
  だから、私が漏れたのもそこからだったと思いますよ。まあ、ほかの団体もいろいろなあれがあったんですね。これを知っていただきたいと思います。

○有馬座長 尾上さん、ありがとうございました。やっと出水の会のお話がよくわかりました。見ただけではわかりにくかったこと、非常によくわかりました。ありがとうございました。

○尾上(水俣病出水の会) その中で、昭和54年3月に連れていった患者が、重症患者が、いまだに毎週水曜日に行きよっとですよ。

○有馬座長 その辺の御努力もよくわかりました。また井形さんに私非常に親しいですから、学長として同僚ですから、井形さんにも聞いてみましょう。この辺の事情をね。
  まだまだお聞きしたいことがたくさんありますけれども、飛行機の時間があるものですから、あまりゆっくりお話できないので、では一言だけ。ほんの短くお願いいたします。

○松本医院長 委員の方は最終解決案をどのように考えていらっしゃるのかお聞きしたいんです。平成7年の最終解決案です。これはそのときに棄却されて、私がタッチした人たちの名簿なんですけれども、ここには約100人の方の名前がありますけれども、みんなこの福浜という漁師の方、先ほど立った方も両親があれされた方も随分お見えですけれども、それがおったんかなという。

○有馬座長 今日名簿を頂きましたので、また検討させていただきます。
  では、皆さん、どうもありがとうございました。これからもお体にお気をつけになられて、御健康でひとつがんばっていただきたいと思います。できるだけのことをいたします。
  ありがとうございました。

午後5時29分 閉会