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第3回水俣病問題に係る懇談会
水俣病関係団体からのヒアリング[1]
会議録
 


平成17年7月21日(木)14:20〜15:50

於:水俣病情報センター2F講堂

午後2時21分 開会

○柴垣企画課長 それでは、ただいまから水俣病被害者団体からのヒアリングということでやっております懇談会現地開催を行いたいと思います。
  本日は、水俣病平和会、それから水俣病患者連合、水俣病被害者の会の3団体からこの場でヒアリングを行います。1団体30分ごととさせていただきます。
  それでは、まず、水俣病患者平和会の皆様からヒアリングを始めます。なお、以降の進行は有馬座長の方からお願いいたします。

○有馬座長 有馬でございます。今日はお忙しいところ、お出ましいただきましてありがとうございます。
  水俣病患者平和会の皆様方、本日お越しいただきまして誠にありがとうございます。早速、いろいろなことをお聞かせいただいて、私たちの参考にさせていただきたいと思っております。
  まず、団体の方に10分ないし15分程度でお話をいただき、そのときに団体をどうして作ったのかとか、設立の経緯とか今の活動状況とか、また、日常いろいろ感じておられることがおありと思いますけれども、そういうことをお話をいただきたいと思います。
  その後、15分程度、我々懇談会側から御質問申し上げて、いろいろお教え賜りたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
  それでは、平和会の皆様、まずお願いをいたします。

○井島(水俣病患者平和会) 本日はどうも御苦労さんでございます。平和会の会長をしております井島と申します。よろしくお願いをいたします。

○池田(水俣病患者平和会) 今日はお忙しいところ、どうもありがとうございました。私は水俣病認定平和会、東町獅子島の池田です。どうぞよろしくお願いします。

○坂本(水俣病患者平和会) こんにちは。私は平和会の坂本と申します。どうかよろしくお願いいたします。

○中原(水俣病患者平和会) こんにちは。私は平和会の中原満と申します。よろしくお願いします。

○大野(水俣病患者平和会) 暑いところを本当ありがとうございました。平和会の方で会計をずっとやっております大野といいます。よろしくお願いします。

○井島(水俣病患者平和会) 平和会のいきさつについて、説明を申し上げます。
  昭和47年に平和会を開設いたしました。現在、認定患者が83名、総合対策事業は450名ほどおります。経緯としましては、会員相互の連絡を密にして親睦を図り、患者の安定した生活の保持と向上を核とする活動をするため、認定患者を会員として、昭和47年4月1日設立。その後、目的を同じくする平成7年、政治解決の総合対策事業の対象者を加えました。
  団体の活動といたしましては、現在、認定基準を堅持しつつ、未認定者、保留者には一日も早い解決と、貴省が、4月7日に示されました「今後の水俣病対策について」の実施を求め、活動をしていきます。
  会の設立当時には、新旧互助会と手を取り合って、県債の発行等について努力をしてまいりました。そして、平成7年の政治解決のときには、いち早くその場におきまして賛成をいたしました。これは前市長の吉井さんもよく知っていられることでございます。我々も賛成しましたけれども、今後、どうなるものかと非常に心配をしておりましたけれども、その後、ほかの団体も逐次賛成をしてくれまして、感動した等々の思い出がございます。その当時は賛成はしたけれども、今後どうなるのかと非常に心配した気持ちがあります。
  それから、5つの団体が加算金を頂いたわけでございますが、そのうちの2団体がその後解散をいたしましたので残った3団体、いわゆる平和会、被害者の会、連合の3団体が総合対策事業の継続と充実を目的に、現代までずっと活動をしてまいって、いろいろな成果もございました。ところが、昨年の10月15日に関西訴訟の判決がございまして、それからある程度、3団体のほかの2団体の主張と我々の主張が相入れないところがございまして、4月28日、そこに差し上げてあります要望書のとおり、3団体との共同行動を離脱いたしまして、我々平和会は平和会だけの運動をしていこうではないかということで、離脱をしたわけでございます。
  目的は、チッソの繁栄と存続をお願いし、我々認定患者が生涯の安定した生活を送りたい。それから、総合対策事業の継続と充実を目的に頑張っていこうではないかと。特に、保健手帳の件につきましては、再三、3団体でも私は要求してまいりました。4月20日は見苦しいような状態でございましたけれども、私はあえて、これが最後のお願いですと滝澤部長さんにお願いをいたしました。おぼれる者はわらでもつかむ、これが私の最後のお願いです、何とか関西訴訟の方たちと一緒に、行政で保健手帳になられた方、司法で保健手帳をもらわれた方、これを一緒にすべきではないかということを私は特に要望をいたしました。
  ところが、現在は6月1日から関西訴訟の方たちは医療費はただになっております。行政が既に発行した保健手帳については、この拡充がいつになるかまだそれさえもはっきりいたしません。行政と司法とどういう考えをしていらっしゃるんでしょうか。行政が自ら発行した保健手帳の所持者を後回しにし、司法判決確定者を先にするということについては、私は納得がいきません。一日も早く、保健手帳の方を医療手帳と同じような待遇にしていただくように、ここでも重ねてお願いをいたします。
  そして、本日は前の市長さん、吉井先生もお見えでございますのでお尋ねいたしますが、平成7年の当時の吉井市長の対応にはただ感服するだけでございます。市民の心を一つにまとめて、水俣病の全面解決に政治生命をかけられた努力だったと思うんです。ところが、何が足りなかったのでございましょうか。どこに抜け道があったのでございましょうか。以前に増した水俣病のいろいろな問題が起きている今、吉井さんはその当時、これで全面解決するんだということで、我々さっき申しましたように、平和会といたしましては、イの一番に苦渋の決断で賛成をしたわけでございます。それが、こういうふうに10年経ちますと平成7年以前に増しての騒動でございます。
  「もやい直し」は何であったのでしょうか。「もやい直し」のもやい綱は、とうに切れてしまっております。もう、船はばらばらです。特に、現在、認定申請と保健手帳の申請と、ごっちゃになって、本人は保健手帳の申請だと思っておっても、それが認定申請であったということは、もうちまたにあふれております。
  だから滝澤部長さんが今年の正月の19日、ここの場で今後の水俣病対策に対する3団体の意見を聴きに来られました。そのときに私は、認定基準を見直す必要はございませんと、はっきりここで部長さんに申し上げて、その代わり総合対策事業の充実をお願いいたしますよとお願いをしたわけでございます。その理由は、今認定基準を改正いたしますと、死んだ人から医療手帳を現在もらっている人たちから、すべてを検査し直されなければならない状態になると思います。この水俣の町は非常な騒動になります。
  これをなくすためには、もう現在の認定基準で一日も早く、保留者、未認定者をば処置をしていただきたい。それは認定であろうと、棄却であろうと、これはこれで決まったことでございます。これを処置をしていただきたい。一日も早く水俣の町に平和な町を取り戻していただきたい。これが、今水俣の町は吉井さんが一生懸命がんばって環境の町に変えてこられました。世界でも有名です。環境の町水俣と言えば。それが、裁判の町水俣、こういうふうになっていくのではないでしょうか。現在、認定審査会もございません。やがては私は裁判になっていくのではないかというふうに思っておりますが、これが裁判の町水俣、環境の町は壊れて水俣は裁判の町になってしまうのではないかと、こういうふうに考えております。
  我々は今後もチッソを支援し、繁栄をしていただいて、認定患者が特に胎児性の方、まだ若うございます。40代の後半から50代前半でございます。こういう方たちが一生、安心して生活できる保障を頂きたい。それと、総合対策事業の充実、これも一日も早く、これはさっき申したように正月の19日に言われてから何一つの発展もございません。現在まで。もう、ただこういうこれが掲げられた4月7日に環境省がこうして出された、それから何カ月経っても一つの進歩もございません。これを繰り返されるだけの説明でございます。これをはっきり何月何日から保健手帳の受付をいたしますよと、それにはこういう書類が必要なんだと、こういうふうに手続をしなさい、はっきりおっしゃってくだされば、さっき言いました認定申請と保健手帳の申請がごっちゃにならずに済んでおるわけです。これは現在はごっちゃになっております。
  今後とも我々はさっき申し上げましたように、認定患者の生活の保障と、それから総合対策事業の充実と継続、これを求めまして活動をしていきますのでよろしくお願いをいたします。
  さっき質問をいたしました吉井さん、平成7年当時、これで全面解決できると確信されておりましたか。

○有馬座長 では、吉井さん。

○吉井委員 95年の政治解決の際には、平和会の皆さん方が最初に賛成され、他の団体も結局同意し政治解決したということで非常に感謝をいたしておりました。今の段階になって、いろいろ多くの問題が出てきて、それはどういうことだという御質問だと思いますが、政治解決の場合はその解決をしたときから、すごく大きな批判、それから苦情、たくさんちょうだいをいたしました。これは苦渋の選択という言葉で表現されておるわけでありますけれども、なぜそうなったのかと言いますと、やはりその政治解決の発端は、「生きているうちに救済を」という患者さんの切なる願いがございましたし、そしてそれに応えて司法の場で和解勧告がなされた。それを受けて政治解決という努力をしてまいったわけでありますけれども、私が主張したのは、裁判の原告だけ救われてもだめだ、原告以外にも、一般に申請をされていない人たちもすべて救済すべきだという主張をいたした。結果として、そうなったわけでありますけれども、そこで、でも和解でありますし、相手のあることであります。いろいろ論議をされた上、ご存じの条件で決着をしたわけであります。もちろんたくさんの積み残しがございました。大きな問題を言えば行政の責任が認められなかった。それから水俣病という病名で救済がなされなかったというのがございます。
  そのことがその高裁判決で問われているわけです。そこで、残された問題をどう解決するかいうことでこの委員会もそういうことをいたしておりますし、これからいろいろな手だてがされてゆくと。その段階として、皆さん方の御意見をお聞きするという段取りになったと思います。
  この委員会は具体的に救済をこうするんだという決定をする委員会ではございませんけれども、皆さん方が今申されたような多くの疑問、それから御意見、そういうものをお聞きをいたしまして、そしてそれをどう解決するか、方向付けをしていきたいという委員会でございます。
  今日はいろいろ御意見がございましたので、これから委員の皆さん方と論議をしていくということになります。よろしいですか。

○有馬座長 各委員から何かございませんか。
  吉井さん。

○吉井委員 この他の3団体と意見を異にしたということでしたけれども、どういう点でほかの団体と主張を異にされているわけですか。3団体と共同でやってきたと言っていたでしょう。ところが意見が違ったと、それで3団体から抜けたんだとおっしゃいましたね。それで、その3団体と皆さん方の異なった点というのはどういう点でございますか。

○井島(水俣病患者平和会) 私は先ほども申しましたように、4月20日にわらでもつかむ思いで保健手帳の6月1日からの適用をお願いをしたわけでございます。その前に被害者の会から二次訴訟の方、それから関西訴訟の方、これを6月1日からお願いをするからよろしく頼むぞということがあって、私はそれに賛成をしたということでございます。
  ところが保健手帳を現在持っておる方、その人たちを6月1日同時にしてくれと話しにその場で副会長を呼び出して、これを要求しようではないかということで副会長と話をしまして、どうしてもこれも一緒にお願いをしたいというふうにしたんですけれども、ほかの2団体の方が賛成をしてくれませんでした。ところが、事務所の女性の方が「保健手帳もこれが6月1日から常に一緒にするようにせにゃいかんもんな」とおっしゃってくれて、私は大変うれしかったわけです。ところがそれが実現して、現在関西訴訟の方については、もう対象になっておりますけれども、何回も申しますが、行政が発行した保健手帳です。これを司法が判決を出した確定原告の医療手帳よりも遅らすというのは、非常に私は疑問がある。行政はそれだけの責任を持てないのかと。三権分立の日本でございます。
  関西訴訟について申し上げます。関西訴訟の原告の方々というのは一緒に平成7年に「一緒にあんたたちもやりましょうや」と声をかけて、「いや、おれたちはこっちで司法の方で相撲を取るからお前たちはそっちで相撲を取れ」とおっしゃっている。行政の方に加勢をしてくれなかった人たちなんです。
  ところが、関西訴訟の判決が10月15日、私はテレビで見ておりましたが、判決があった時点では万歳、万歳、非常な勢いでございました。ところが、帰ってよく寝て考えてみたら、医療費がついてなかったなということを感じられたのではないかと思います。同じ土俵で相撲を取らずにおって、行政の側での相撲の勝利としての医療費を私たちにも下さいと。司法の勝利が自分たち丸締めして、医療費も下さいいうようなことではなかったかと思います。だから私はどうしても関西訴訟の原告の方々と一緒に保健手帳の拡充を実施をしていただきたかったわけでございます。だからそういう点で、やっぱり意見が相違して、もう我々は我々だけでやっていこうではないかということになったわけでございます。

○滝澤保健部長 座長、ちょっとよろしいですか。
  私どもの対応に関連して、井島さんから何度か今お話ありましたんで、状況といいますか、考え方、それから委員の先生方の御理解いただくということで発言させていただきます。
  1月19日にこういう方針で臨むんだという御説明をこの場で皆様にいたしました。井島さんのおっしゃるそのような主張をされた、それから結果的にこうだったということは全部そのとおりでございまして、また、あえて申し上げれば、井島さんの考え方は原則的には正論でございます。
  ただ、私どもが10月15日に最高裁の判決が出て、おっしゃるように彼ら三十数名は、損害賠償という形での判決でございましたが、日々の医療費というものは一斉にカウントされていないということでございました。
  当時我々は国会答弁でも、それは損害賠償金の中にそういうものも含まれているから、なかなか医療費をさらに彼らに出すということは、理屈上、理念上、難しいのではないかという答えを12月、1月としてまいりました。ところがといいますか、当時の3団体の意見としても、関西の判決確定者に対しても医療費をみるべきではないかという御意見が強うございました。
  それから、現に私も大阪の御家庭、それぞれ26軒、個別に訪問させていただきましたが、現実的な意味で日々の医療費をぜひ見てほしいという意見が非常に強うございました。そういうことで、私ども4月7日の案には判決確定者に対する医療費の支給というものを上げさせていただきました。
  次に2点目、なぜ、それでは、今保健手帳を持っている方と一緒のスタートにしてほしいという井島さんの要望が通らなかったのかという部分でありますけれども、実は、年末にかけてその判決が、10月15日でございますから、その予算編成等々という意味では年末でございます。そうした中で4月7日の案をまとめていく。全体の保健手帳を結果的には医療費全額をみられるということで、大幅な改善をしたわけですけれども、そういう部分については、若干、役人的な言いわけになって恐縮ですけれども、17年度の本年度の予算という意味では、カウントできない状況にございました。そういう実務的なことも含めて、なかなか早めの現実的な実施が、新保健手帳という意味ではかなわなかったと。
  開始については、この秋という言い方を我々はしております。そこはなるべく早くという意味で、体制とか、それから新しい手帳の対象者の審査体制もございます。それから今、審査会が立ち上がっていないという本体の方の状況もございます。それは全部数珠つなぎで関連してまいりますので、そういうことを整えることに全力を挙げながら、なおかつ、新保健手帳に新しく申請された方も含めて、井島さんがおっしゃるように、今持っている方は別にというのはわかりますけれども、それと新しく申請されてきている方は、少なくともタイミングを一緒にして内容を拡充したという意味での新制度はスタートしたいということが、我々の考え方でもあり、そういう考え方の整理の下にどうしても判決が確定した方と、拡充した保健手帳の方とのスタートがどうしても結果的に一緒にできなかったという状況にございます。言いわけばかりで恐縮ですけれども、1月に井島さんがきつくおっしゃったことを私もはっきり覚えていますし、お考えの中身そのものは、私は極めて正論だといまだに思っております。
  以上、よろしいでしょうか。

○有馬座長 加藤さん、いかがでしょうか。

○加藤委員 先ほど、胎児性患者の方のところで、安心して暮らしていける保障がほしいというふうにおっしゃっていたんですけれども、具体的なところが何かあれば教えていただけますか。

○井島(水俣病患者平和会) 胎児性の今後の救済について、お金だけでは解決できない問題だと思います。現在行われております「ほっとはうす」ですとか、ああいう施設、それから水俣市に何か授産施設を造っていただいて、体は不自由だけれども何とかして仕事をできるというようなそういう施設を造っていただきたい。ただ、お金だけで解決する問題ではないと思うんです。だから「ほっとはうす」みたいなやつをもう少し広げて、それに胎児性の救済をお願いをいたしたいと、こういうふうに考えております。

○有馬座長 では、金平さん。

○金平委員 今、胎児性のお話が出ましたけれども、今日お話いろいろ伺わせていただいてありがとうございました。ここにいただいております書類の最後のところに、今後の水俣病対策の早急な着手を望むというふうに書いてございますし、それから今日いただきましたここに今の胎児性の問題などの家庭の事情が深刻だから、これ以上地域が混乱せず、全患者・家族が安心して生活できるようにというふうに書いてございますが、こちらに書いてある水俣病対策の早急な着手ということは、このことだと考えてよろしいですか。

○井島(水俣病患者平和会) この水俣病対策のこの3番の2、水俣病問題に関する今後の取り組みということで、ここに列挙してございます。

○金平委員 これですね。

○井島(水俣病患者平和会) これを確実に実行していただきたい。

○金平委員 これをですね。

○有馬座長 では、どうもありがとうございました。大変勉強になりました。またこれからもこの懇談会としてもさまざまなことを努力させていただきたいと思っております。
  どうも本当にありがとうございました。

○井島(水俣病患者平和会) ありがとうございました。

○有馬座長 お元気でいらっしゃいますように。

○柴垣企画課長 では、時間も押してまいりましたので、続きまして水俣病患者連合からのヒアリングを実施していきます。
  では、座長お願いします。

○有馬座長 有馬でございます。今日はお忙しいところ、大変また暑いところおいでいただきまして、まことにありがとうございます。
  水俣病患者連合の皆様、本日本当にお越しいただきまして心より感謝を申し上げたい。そしてまた今日、いろいろなことをお聞きいたしまして、今後の懇談会としての方針を決める参考にさせていただきたいと思います。
  そのヒアリングを始めるに当たりまして、まず団体の方に10分なり15分程度で団体の設立の経緯や今の活動状況、それとまた日ごろお考えのこと、御希望などをお聞かせいただきたいと思います。そして、その後15分ほど、我々懇談会側から御質問いたしまして、お答え賜れれば幸いです。よろしくお願いいたします。

○弘津(水俣病患者連合) 私、患者連合事務局の弘津と申します。
  この紙は配られているんですよね。

○金平委員 あらましという。いただいています。

○弘津(水俣病患者連合) あらましということで非常に簡単に書いてあるんですけれども、水俣病患者連合というのは、昔、水俣病認定申請患者会ということで、今から31年前になりますけれども、設立された水俣病認定申請患者協議会ですから、認定申請ですから、要するに未認定患者の団体として出発しました。
  その後、さまざまな運動、ここに書いてあるのは主にどういうようなことをやってきたかというと、特に環境省とか熊本県にとっては一番うるさい存在、要するにしょっちゅう座り込みとか、環境省の前で座り込み、県庁では何カ月も座り込みというような形の自主交渉を中心にしてきた団体です。それだけではなくして、その傍らでいろいろな訴訟も提起してきまして、今お配りしたその文章ですけれども、そちらの方にはかかわった訴訟を一覧表で、これは簡単にしか書いてありませんけれども、かなりいろいろな行政不服等、待たせ賃、棄却取消訴訟とか、やはりこちら側の会員が原告になった裁判とかいろいろあります。
  そういった中で、ここに書いてありますが、1988年に申請協を母体としてチッソ交渉団というものを作りまして、チッソ原因裁定を申し立てると同時に、チッソの水俣工場正門前で座り込みに入りまして204日間。その後、知事の仲介、それからその後の知事になっている福島さんの仲介でチッソとの話合いを進めるということで座り込みを解きまして、申請協とチッソ交渉団を合流させまして、水俣病患者連合という形にしてきたと。
  それで、95年、その後は、チッソ及び行政との交渉を中心にして活動をしてきまして、95年まではそういった形を続けておりました。95年にはさんざんうちももめましたけれども、皆さんご存じだとは思いますけれども、さっき吉井元市長も言われたけれども、だんだん一緒に闘ってきた仲間が、そこまででも20何年やってきていましたから、20何年のうちに亡くなっていく人々が随分多くなる。そして今まで一緒に座り込みやっていた、あるいは裁判の傍聴に行っていた人が1人欠け2人欠けして行けなくなってくる。
  そういう状況の中では、何とか妥協してでもやるしかないのではないか。これはそれこそ20何年間の運動から、それまで22年間の運動から言いますと、時には仲間を裏切るというような思いもありました。実際言って、そういう思いもありましたけれども、それでも生きている人たちを考えれば、それを受けるしかないということで、95年の和解を一緒になって受けてきたという経緯です。
  それ以降は、改めて96年からは衣がえしまして、補償要求ではなくして、水俣病を広く正しく伝えていくという活動、それから会員の希望である、会員というのは認定患者、いわゆる医療手帳とか保健手帳を持っている人たちですので、その人たちの補償の拡充というものを求める団体としてそれ以降10年間、ずっとやってきているというのが、大体、連合の簡単な経緯でいいですかね。
  あとは佐々木さんの方から。

○佐々木(水俣病患者連合) 初めに私、水俣病患者連合の佐々木でございます。今回、懇談会委員の各先生方、今回で3回目というように聞いておりまして、3回目を現地の水俣で開いていただいたことに対して、深く感謝を申し上げます。
  今日、限られた時間の中で私の発言をさせてもらいたいというふうに思います。10分程度発言を御了承願いたいと思います。
  1番目に、政府解決策対象者とは、何なのか。
  懇談会の先生方は、国が政府解決策に応じた私たちをどのように見ているかご存じでしょうか。まず、第一は、認定申請を棄却された者ということです。しかし、かといってメチル水銀の影響が全くないとは言い切れないというものです。だから、救済を求めるのも無理からぬ理由があると言います。これは95年9月の政府・与党最終案に書いてあります。
  それで、私たちの医療手帳を発行する水俣病総合対策には、「対象者はメチル水銀の曝露を受けた可能性のある者、水俣病に見られる感覚障害を有する者」とされています。懇談会の先生方は、このように言われている私たちを水俣病患者として見てくれますか。私が最初に問いかけたいのは、そのことです。政府解決から10年間、私はこのことを問わずにきました。問わないことが政治解決の約束の一つだったからです。
  しかし、今環境省は私たちのこの義理堅さを逆手にとっています。政治解決に応じた1万人がいるから、それとは違った基準を作って新しい申請者を救済することはできない、判断条件は変えられないというのです。私たち政府解決対象者を水俣病と呼ばなかったのだから、同じような症状を持つ関西訴訟原告を水俣病と呼べるわけがない。まして、新しい基準を作って、今の申請者を水俣病として広く救済することができるわけがないだろうというのです。
  これが、私たちが置かれている状況です。政府解決対象者とは何者なのでしょうか。
  2番、乗り越えられなかった壁。
  政府解決策を受け入れたとき、私たちは国賠訴訟をしていませんでした。実は前身団体である認定申請患者協議会は、故・川本輝夫氏の提案で、昭和54年に訴訟直前までに準備を進めていたのです。しかし、いろいろな事情でそれがつぶれてしまいました。それ以降、国賠訴訟を提案することはできなかったのです。
  水俣病についての国の責任を確定させ、未認定患者を救済させるには、どうしても法律的な手段を使わなければならない。しかし訴訟はできない。そこをどのように乗り越えるかを考え詰めたあげくに、私たちは公害等調整委員会へ原因裁定を求めることにしたのです。
  被害地域に宣伝して回り、地域集会を積み重ね、チッソ交渉団を結成し、1年間の準備の末、私たちは88年7月末に申請しました。ところが、公調委は訴えを門前払いしました。このことは、誰も予想していなかったので、私たちにとっては大変なショックでした。私たちはそのときまで続けていたチッソ前の座り込みを延長せざるを得なくなりました。結局、半年後にチッソが私たちと直接交渉をする約束をしたのと引きかえに座り込みを解きました。国会議員を仲介にして、チッソと直接交渉を始めたのです。
  最終場面では、私たちの直接交渉が、国賠訴訟の和解協議と同じ重みを持つことになり、患者連合の会員ばかりでなく、訴訟をしていなかった他の多くの被害者のための救済の道ができ上がりました。5年間の苦しい道のりでしたが、このことには今でも誇りを持っています。
  しかし、どうしても乗り越えられなかった壁は、「水俣病患者として認めさせること」、「水俣病を発生させ、拡大させた国・県の責任を認めさせること」だったのです。
  3番に、関西訴訟最高裁判決が切り開いた道。
  私たちの運動の先輩である川本輝夫氏は、関西訴訟で証人として法廷に立ちました。それもあって、私たちは関西の患者が私たちができなかった訴訟を代表してやってくれているのだという気持ちをずっと持ってきました。だからこそ、政治解決の後でも、私は高裁判決に行きました。最高裁判決にも立ち会いました。高裁のときも信じられないほどの勝訴で帰りには私と同行した松村支部長と祝杯を上げたことを覚えています。さらに、最高裁判決でそれが確定し、正直言いますと驚きの気持ちで今でもいっぱいです。
  委員の皆様には既に御承知のとおりですが、最高裁判決は「メチル水銀中毒症」という認定条件を確定させました。さらに、国・県に水俣病の発生と拡大の責任があったことを明確にしました。ということは、国が、チッソの犯罪を助けた共犯者であるとして、被害者の救済と被害者が住む地域の復興に責任と義務があることをはっきりとさせたということです。
  私たちが乗り越えられなかった壁が今崩れました。来年は水俣病患者発生の公式確認から50年を迎える節目の年になります。しかし、来年はむしろ、国が水俣病問題に対して本腰を入れて解決に取り組み始める元年とすべきではないでしょうか。
  4番、今、国がなすべきこと。
  環境省が現在計画しているように、本年末に保健手帳が再開されます。[1]行政に認定された水俣病患者、[2]政府解決策で医療手帳の対象とされた者、[3]関西訴訟、水俣病第二次訴訟勝訴原告、[4]再開保健手帳の対象者の4種類に患者が分類されることになります。さらに認定申請を続ける人たちもいます。
  私は、このような状態はおかしいと思います。確かに長い時間の間に、それぞれの困難の中でいろいろな救済方法が生まれてしまったことは、今現在の結果としては仕方のないことでしょう。しかし、これをそのままにしてよいはずがありません。
  かつて、私たち認定申請者を「補償金目当てのにせ患者」と呼んだ熊本県議会議員がいました。「砂糖にたかるアリ」と書いた週刊誌もありました。「認定されて1,600万円がもらえるなら私も水銀を飲もう」と発言した製薬会社の会長がいました。政府解決策の後では、「にせ水俣病患者260万円賠償までの40年」という特集記事が組まれました。こうした言葉で突き刺され、傷つけられてきた私たちの苦しみがわかっていただけますか。
  被害の程度、現在の症状の重さによって、救済のあり方に段階がつけられるのはいたしかたないと思います。しかし、水俣病被害は水俣病被害なのです。水俣病患者は水俣病患者なのです。同じ原因で発病させられた人々を不必要な区別をしてわかりにくくすることは、被害者を本当の患者とにせ患者に分ける考え方の始まりです。最高裁の判決で判断条件が否定されたわけではないと環境省ははっきり繰り返して言います。しかし、水俣周辺で発生したメチル水銀中毒症は、チッソが垂れ流したメチル水銀中毒、発病した水俣病患者以外にはないのです。
  水俣病とは、体のどこがやられて、どのような症状であるのか、長い期間後遺症として残るのはどんな症状なのか、治療はどうしたらよいのか、どんな検査をして水俣病患者を見つけたらよいのか、最高裁判決は行政と医学者にたくさんの宿題を出しました。このことに取り組まずに「水俣病の教訓の発信」などと言えるはずがないのです。
  水俣病とは、どんな公害病であるのか。医学者が動かないなら、国がその場を提供して、きちんと議論をしてもらい、判決を取り入れて判断条件をつくり直すべきです。それに基づいて、行政による救済がどのようにあるべきかを考え直すべきです。そうした当たり前のことが一切行われずに、保健手帳再開の言葉だけが踊っています。
  5番、懇談会の皆さんの真剣な論議と明確な提言を望みます。
  水俣病の被害とは、健康被害だけではありません。私は芦北町女島に生まれ育ちました。漁業に生きるはずが、その漁業をチッソと国に奪われ、北九州に転出しました。水俣病が悪化したおやじの世話をするためにまた戻ってきましたが、おやじのその最期はそれはそれは悲惨なものでした。その後は水俣病問題の深刻さを知って、運動に取り組み、松村支部長と一緒に大変な重荷を背負ってここまで歩いてきました。水俣病被害とはそれを背負った人の人生そのものだと思います。懇談会の先生方にわかっていただきたいのは、そのことが第一です。
  水俣病事件史をたどると、一人ひとりの人間の発言や行動が、物事の進み方を大きく変える可能性があった場面に出会います。残念ながら、今まではよい方向に進んだ場合が少なかったように思います。しかし、今からはその経験を生かして、改めるべきは改めようと責任ある位置にある人たちがきちんとした行動をしていくことが求められると思います。そのための口火を切ることが、懇談会の先生方一人ひとりに求められていることだと私は考えます。
  先生方の英知をもって、水俣病被害に向き合うべき行政の真の姿を提言してください。心からお願いを申し上げまして、私の発言を終わらせていただきます。
  ありがとうございました。

○有馬座長 ありがとうございました。それでは、委員の方から何かご質問、あるいは、ただいまの御要望に対して、何か意見があればおっしゃっていただきたいです。
  吉井さん。

○吉井委員 先ほど、平和会から3団体から脱退をするというお話を聞いて私はショックを受けたわけですけれども、これまで、政治解決以来もう十何年になりますか、いろいろな違いを乗り越えて、そして話し合いながら苦難と闘っておいでの3団体でありますので、非常に残念という思いがいたします。その最大の原因は、今お話を聞いていますと、認定基準をどうするかということのように思いますが、そうですか。
  お話を伺っておりますと、まことに長い歴史の中で4種類の患者が並んできたと、それを今回、すっきりとした形にすべきだというふうに、私はそういう御意見だと受け取ったわけですけれども、どうでしょうか。

○高倉(水俣病患者連合) 私、水俣病患者連合の事務局長を務めております高倉と申します。代わりに答えさせていただきます。
  先ほどの井島さんの話、僕も後ろの方で聞いていましたが、大分誤解をされているようで、まず、環境省の方たちと交渉したときに、私たちも、それから全国連の方も、一緒に6月1日からの保健手帳の再開を望むと強く言ったんですが、井島さんは我々が反対しているというふうに、ちょっと、何を勘違いされたのかなと。
  平和会の井島さんとの考え方の違いというのは、今吉井さんがおっしゃられたそこだと思います。私たちは医療手帳の人も水俣病だと思うし、関西訴訟で勝訴した人たち、そして第二次訴訟で勝訴した人たちも水俣病と呼ばれるべきだというふうに思っているんですが、そこを井島さん独特の考えがあるんだと思いますが、ありていにちょっと露骨な言い方をすると、水俣病患者に出されるパイを取られてはいけないというそういうお気持ちを少しお持ちなのかなというふうに、そうではないんですよと何べんも申し上げましたが、その意見の違いを引きずり、今日の発言になられたんだと思います。
  ただ、患者団体同士が幾つかの道に分かれては、また糾合するというのが、残念ながらというかおもしろいことだと僕は思っていますが、水俣病患者の運動の歴史でもありますので、さして深刻にはとっておりません。
  そして、もう一つの御質問、そのとおりで、さっき会長から申し上げましたように、これから4種類の、4種類って変な話ですが、水俣病患者と呼ばれない患者予備軍と、行政未認定の患者等々が並ぶことになります。私たちが最初から3団体として要求していますけれども、要求したのは、今からこれを全部認定というふうに言うと難しいなら、特別立法をつくって、その特別立法の中で歴史的な事情を勘案しながら、全体を水俣病患者として定義し直したらどうかというふうに考えているんですね。
  だから、それが現在あるチッソの補償に直結するという考え方ではなくて、さっき会長からも申し上げましたけれども、とにかくにせ患者視されているというのが一番きついところです。政治解決のときにも我々一旦は名誉を回復してくれと、被害者の名誉を回復してくれというふうに一番強く言っています。それがなされない。水俣病ではないけれども、水俣病を否定できないというようなところで我々は我慢させられてきたんです。それを今回の最高裁が壁を打ち破ってくれましたから、これを機会にやっぱり患者は患者なんだという最低限のところを確認していただきたいというのが、私たちの考えです。

○弘津(水俣病患者連合) ちょっと高倉の話に補足したいんですけれども、ただ、そういった患者が分裂した歴史というものは、患者同士がしてきたのではないということは言っておきたいと思います。これは、チッソと行政の認定があったんだ、旧認定だ新認定だ未認定だ未救済だというふうに分けてしまってきたので、その中で患者同士がいがみ合ってきたんだということであって、患者自身にその責任を負わされては、僕はちょっとそれは違うだろうということが1点。
  それからもう一つ、95年のときの苦渋の選択というのは、やっぱり2つのところが一番きつかった。要求していたのは3つですよね、未認定の患者として認めてくれ、行政の責任認めてくれというのと、被害に見合った補償をしてくれということです。確かに補償の内容も低かったです。しかし、高倉が言ったように、一番きつかったのは、水俣病患者と認められなかった。それから長く言い続けていた行政の責任、少なくとも解決を遅らせたではなしに、拡大してきた、放置していた責任については認めてほしいということをずっと言い続けてきたのが、あの当時できなかった。それを関西訴訟の判決は明確にしてくれた。ぜひともここのところで、その判決を受け入れて、あのとき足らなかったものを補完してほしいというのが私たちの思いです。

○有馬座長 ほかに。加藤さん。

○加藤委員 今、佐々木会長のお話を伺いまして、ささやかながら患者連合の前身である交渉団にかかわらせていただいた立場から、非常に会長の言葉も深く受け止めております。御所浦支部長の松村さんともども、まさに苦渋の選択という中で、大変な中をここまで来られてきていると思います。私自身、一委員として、どこまでできるか分かりませんけれども、最初から私自身皆さんと同じ覚悟を水俣病患者として、被害を受けた人たちの立場に立って参画しているつもりです。そして、これ以上、患者が分断させられていくような状況を招いてはいけないと思うし、このことはきちっと最高裁の判決で確定したわけですから、そこのところを国はしっかりと受け止めてほしいというふうに私も思っております。
  まさに、先ほどの言葉の中にもありましたけれども、これからの50年ということは、患者は患者としてきちっと認められる元年というふうにとらえていきたいというふうに私も思っています。どこまで力が出せるかわかりませんけれども、気持ちは皆さんと一緒のつもりです。
  以上です。

○有馬座長 どうもありがとうございました。
  まだ、私もお聞きしたいことがいろいろありますけれども、時間も予定を超えていますので、何か必要があれば、またいつかお聞きいたしたいと思います。
  大変、いろいろなことでお教え賜りましてありがとうございました。また、今後ともずっと水俣病の患者のためにひとつお力添えを賜りたいと思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。そして皆さん、お元気で御活躍ください。
  今日は、本当にありがとうございました。

○柴垣企画課長 それでは、3団体目でございますが、水俣病被害者の会全国連絡会からヒアリングを行いたいと思います。
  では、会長お願いします。

○有馬座長 有馬でございます。今日は、お忙しいところ、お暑いところをお出ましいただきまして誠にありがとうございます。水俣病のことにつきまして、いろいろお聞きいたしたいことがありまして、今日参上いたしました。
  水俣病被害者の会全国連絡会の皆さん、今日は本当にお忙しいところをありがとうございます。いろいろとお聞かせいただきまして、勉強させていただきたいと思います。そのヒアリングに際しまして、まず皆様方の方から10分ないし15分、団体の設立の経緯であるとか、現在の活動状況、そして日ごろ考えておられること、将来に対する御希望等々、お聞かせくださった後、こちらの方から15分ほど、御質問申し上げいろいろお聞かせいただきたいと思います。
  それでは被害者の会の皆様、お願いをいたします。

○橋口(水俣病被害者の会全国連絡会) 懇談会の皆様には、今回このような機会をおつくりいただき、発言の機会を与えていただきましたことに心から感謝を申し上げます。皆様の御苦労に対し、心から敬意を申します。私は水俣病被害者の会全国連絡会の幹事長をしています橋口三郎といいます。今日は森葭雄代表委員、また中山裕二事務局長と一緒に話をさせていただきます。
  私は鹿児島県出水市住吉町に生まれ育った根っからの漁師です。先の戦争も兵隊として経験しましたが、親の代から不知火海に出て豊かな海と共に生きてきました。
  水俣病との付き合いは、1974年10月に水俣にあった水俣病被害者の会の出水支部として会をつくり、私は会長になり、その年の12月には集団検診をすることができたときからです。。
  1980年に水俣病第三次訴訟を提訴し、最初から最後まで原告団長を務めてきました。1982年には、鹿児島県知事から水俣病と認定されました。途中で、水俣病被害者弁護団全国連絡会議の代表委員となり、水俣病被害者の会全国連絡会の結成以降は、幹事長を務めています。今年は80歳になりますが、このように後半生を水俣病にかけることになるとは、ついぞ思いませんでした。
  さて、私たちが闘った水俣病第三次訴訟は、水俣病の歴史上、初めてチッソとともに国と熊本県を被告にしました。なぜならば、当時、認定申請をしても認定になる可能性は極めて少なく、行政に期待できないのなら、裁判所で水俣病と認めてもらおうと思ったからです。
  最初は70人で始めた裁判は、追加提訴を重ね、熊本地裁で1,300人の原告団となり、新潟、東京、京都、福岡の仲間も加わって、2,200人の原告団を擁する壮大な闘いになりました。
  1996年に、各地の裁判はチッソ及び昭和電工と訴訟上の和解をするわけですが、ここに至る間、私たちは様々な取組をし、頑迷な国を解決のテーブルにつかせるために全力を挙げてきました。私は今日、水俣病裁判という本を皆様のお手元にお配りしていますので、ぜひとも、御一読願いたいところです。
  ところで、この闘いの中で、国の対応はまことに非人道的なものでした。例えば、1987年3月、熊本地裁で初めて国の責任が裁かれたときです。私たちは、判決を携えて上京し環境庁との交渉に臨みました。ところが、環境庁の幹部は判決に服するのではなく、控訴するというのです。激しいやりとりがありました。私はたまりかねて、「判決文をちゃんと読んだのか」と迫りました。返ってきた答えは「ちらっと読みました」いうことでした。
  私たちが命をかけて闘い取った判決をちらっと読んだだけで、検討もせず、これを解決に結びつけようなどとは思いもしない、極めて横柄な対応で、私は愕然としました。
  また、1990年9月の東京地裁に始まり、熊本地裁、福岡高裁、福岡地裁、京都地裁とわずか40日の間に行われた裁判所による和解勧告を早々に拒否したのは、国でした。裁判所から再三にわたって出席を呼びかけられたにもかかわらず、拒否し続けました。水俣病問題を解決しようとする対応は一切ありませんでした。
  このような対応をしてきた環境庁が、1995年8月に示した解決案素案といわれたものは本当にひどく、私たちは白紙撤回を求めました。再検討の後、当時の与党三党の解決策として出てきたものも決して満足のいくものではありませんでした。しかし、生きているうちに救済を進めるのは私たちの当初からの目標でもありましたので、これを受け入れることにしました。
  このときの決断は、まさに苦渋の選択でありました。15年にわたって裁判を闘ってきた仲間が、判決では水俣病と認められ、賠償金額も数百万円から1,000万円台まで認容されていました。もともと、水俣病の発生、拡大、放置、切り捨ての責任を明らかにしたいという強い思いがあっての裁判でした。加えて私は、国と熊本県の責任で、不知火海をよみがえらせてほしいと思っていました。
  このようなことをすべて横において、しかも2,000人を超える原告のうち、一人でも裁判を継続するものがいたら、全員が解決できないという提案だったのです。本当に非人道的な決断を迫るものでした。結果として、全員に同意してもらいましたが、当時の一人ひとりの胸のうちを考えると、今でも胸が痛みます。
  解決後も、私たちは解決策の中心であった水俣病総合対策医療事業の継続、拡充を求めて、当時解決策を受け入れたほかの団体と共に行動をしてきました。また、私は当時から水俣市立水俣病資料館の語り部をしております。水俣病の経験を引き継ぐために、NPO法人も設立しました。市民の皆さんとも、もやい直しについてもできるかぎり協力しています。これは、多くの国民の皆さんの支援を受け、一応の解決を見ることができたことに対する私たちの社会的、歴史的責任であると考えているからです。
  このような状況の中で、今環境省が進めようとしている対策は全くまやかしでしかありません。私たちがかつて流した涙の意味さえ理解しないものであり、傲慢な対応の根本は全く変わっていません。
  私たちは、同じ被害には同じ補償をすべきであると考えます。もし、このまま拡充した保健手帳の受付を再開するとすれば、また新たな患者の区分を作ることになります。すなわち、知事から行政認定された患者、さきの総合対策の医療手帳の患者、保健手帳の患者、関西訴訟、2次訴訟の勝訴患者で既に4つに区分されており、新しい保健手帳は5つ目の区分になります。まさに、これまで環境省が判断条件に固執し、批判をかわすために目先の対応を水俣病対策と称して取り繕ってきた結果であり、患者が望みもしないことを環境省が勝手につくってきたものです。患者はこんな区分を望んではいないことは明白ですし、これ以上の不幸はありません。最高裁判決を受けた今こそ、環境省は謙虚に反省し、これまでの対策を抜本的に見直すべきです。少なくとも水俣病患者と認めるべきです。
  このままでは、救済を求めて新たな裁判が起こることでしょう。大変残念なことです。また、健康や環境調査は重要であると考えています。これまで国が一貫して行ってこなかった分野であり、今からでも決して遅くないのだから、実施すべきだと考えます。
  さらに、内閣総理大臣の謝罪です。10年前は、村山総理の談話がありました。決して十分ではありませんでしたが、私たちは一国の総理大臣が個別課題である水俣病の談話を発表されたことを評価しました。しかしながら、現在は最高裁判所で国の責任が確定したわけですから、それを踏まえて、新たな段階での国としての見解を示すべきです。来年5月1日の公式発見50年目の水俣病犠牲者慰霊式で、内閣総理大臣の謝罪を求めたいと思います。
  いろいろ意見を述べてまいりました。まだまだ言い足りないことがたくさんありますが、最後に申し上げたいことは、今の時期がある意味ではこれまでの水俣病の歴史の中でも最も大事な時期ではないかということです。
  最高裁が私たちにもっと議論をするように贈ってくれたメッセージであるとするならば、もっともっと議論が必要だし、具体的な施策が必要です。今度こそ、救済を求める住民を残さず救済する機会にしなければならないという思いを強くします。発生から50年もたって、ちゃんとした解決ができなければ、私は後世の人たちから笑い者にされるでしょう。
  懇談会の皆様におかれましては、私たちの意見をお聞き届けいただき、どうか今後の施策にいかしていただきたいということを心からお願い申し上げて、私の意見といたします。
  ありがとうございました。

○有馬座長 どうもありがとうございます。大変明確なお話をいただきましてありがとうございました。
  私も質問がありますが、どうぞ皆さん。
  吉井委員。

○吉井委員 平和会の皆さんが認定基準を見直すと問題解決を長期化し、地域社会を壊すおそれがあったというふうにおっしゃっておられ、また連合の場合は、特別立法で水俣病として救済することで混乱を避けられるんだ、チッソとの補償協定に触れずにいけるんだというふうなニュアンスであったと思います。特別立法を一生懸命主張されておられます橋口幹事長さんは、その点についてどうお考えでしょうか。

○中山(水俣病被害者の会全国連絡会) では私から少しお話をさせていただきます。
  今日は吉井さんがずっとそのことについてお聞きなので、私も先ほどから後ろで聞いておりました。3団体のことで、私どもの基本的なスタンスを先に述べさせていただきたいと思います。一致する要求で3団体としての行動をするということを大事にしてきました。これまで10年は総合対策の継続と拡充という点での要求内容でした。この点では、実は今も3団体の枠が壊れているわけではありません。先ほど井島会長ともいろいろお話をしたのですが、そのことであれば、先ほど高倉さんも同じようなことを言っていたんですが、そんなに心配をしていない。今も一緒にやれると思っています。ただそれぞれの団体がそれぞれの主張をしていくと、主張するその中には、平和会の皆さんがなかなか入ってくれないことも、あるのではないかなというふうに整理をしているところであります。
  それから、先ほどの水俣病と呼ぶのかどうかということなんですが、これは私も大事なところだと思っています。環境省がその判断条件を変えないと頑迷におっしゃるわけですから、それはそれで環境省の考えで、ただ、それに当てはまらない者は水俣病と呼ばないというのは、やっぱり極めて傲慢な姿勢であることは間違いない。それほど、言い切れるだけの本当に水俣病の学問としてあるいは医学としての蓄積があるんだろうかということも含めて、私はもっと謙虚であっていいのではないかというふうに思います。
  さらに、もっと具体的に言えば、やはり先ほど連合の皆さんもおっしゃっていましたが、今、特別立法も具体的な立法案ができております。その中で、何とか整理できないかという努力もされておりまして、私は大いにその点で国会でもがんばっていただきたいと思います。また、それと少し次元が違うかしれませんが、医学者の間でやっぱり公明な議論をぜひしていただきたいなというふうに思っていると。

○有馬座長 ほかに御発言ありませんか。
  どうぞ、鳥井さん。

○鳥井委員 水俣病の定義を明確にできるかどうか、基本的バックグラウンドがないとおっしゃった、それは多分そうした区別があるからだろうというふうに思うわけでありますが、全国連絡会議としては、どういう定義をとるべきだというふうにお考えでしょうか。
  今のお話によると、救済を求める人はみんな水俣病ということでもいいというニュアンスに聞こえてしまったんですけれども。

○中山(水俣病被害者の会全国連絡会) 私どもが、例えば裁判の中で主張してきました水俣病というのは、この不知火海沿岸に住んで、汚染された魚を多食して、四肢に感覚障害を有する者と、非常に大ざっぱな言い方をしますと、それを水俣病であるということをずっと言ってきております。それは裁判所ではずっと認められてきた定義でもありますし、95年の解決策の基準にもなっています。それを私どもは水俣病としているわけでありまして、みんながみんな水俣病というふうには全然思っていません。
  もう一つ、あえて言わせていただければ、例えば今認定申請をしている人たちが40代、50代が多いですね。そうしますと、胎内にいるとき、あるいは生まれた直後から汚染を受けている可能性が非常に高い人たちがたくさんおりまして、この人たちがいわゆる後天性の水俣病の環境省がおっしゃる判断条件で、本当にくくれるんだろうかという別な新たな疑問もあります。そういう意味では本当にその知恵を集める、医学者の知恵を集めるという作業をやらないと救済につながっていかないのではないかというふうな危惧も持っています。

○有馬座長 加藤さん。

○加藤委員 この懇談会の中に、当時の専門家が入っていないということで、大分心配もされていたと思いますけれども、全国連として懇談会の今後の在り方ですね。今回はこういう形で水俣に来て現地の患者さんの声を聞くという機会が持てているわけですけれども、もちろん時間的に十分ではないと思いますけれども、今後もし何か御意見があったらお願いできますか。

○ 中山(水俣病被害者の会全国連絡会) ぜひ水俣病の裁判にかかわった弁護士の話は聞いていただきたいと思います。あわせて、その裁判の中で水俣病像を、私どもが言う水俣病像を確立してきた医師、あるいはその集団としての医師団の意見も聞いていただけたらなというふうに思っております。
あわせて、私は懇談会の皆さんの提言を、大臣なりあるいは環境省の事務方の皆さんがやっぱりちゃんと今後の施策にいかすんだということを明確にしておかないとこれはまずいと思っています。その点で私は環境省の責任というのは大きいというふうに思っています。環境省ができて30年になろうかとしているわけで、初めて来年には生え抜きの事務次官が生まれようとしている役所になってきているわけでありますし、本当に水俣病のことを総括できる役所たるのかどうかというのが、今問われているのではないかというふうに思っているところです。
  その点で、先生方の知恵を環境省が全面的に吸い上げるというスタンスを取ることも、あわせて非常に大事なことではないかなと思っております。

○有馬座長 私今のでちょっとわからなくなりました。誤解かもしれませんが、今お話の中で、水俣病とは何かをもう一回ちゃんと医者たちの意見も聞いてきちっと検討せよということをおっしゃいましたが、要するに現在、さっきもおっしゃっておられたけれども、この海で食べた魚でというようなことがもうちゃんと裁判でも言われていますね。それだけでは不完全という判断でしょうか。

○中山(水俣病被害者の会全国連絡会) いや、不完全というよりも、もっと知見を集めるべきではないかと。例えば、私どもが今、過去から言っていますそのたくさん魚を食べたという事実と感覚障害という、この定義そのものは、では正しいのかと言われれば、その後の研究なり、あるいは今認定申請をしていっている人たちの年齢構成が、相対的に若いと言いましたが、そういうことも含めて、私たちが取ってきた病像が正しいと言い切れるのかというのは今後も検証していかなければならないと考えています。被害者の救済をするにはどこかで線引きは要るんでしょうけれども、そのことによって、本当に救済し尽くしてきたのかどうかということは、もっと謙虚に見つめ直す機会が、まさに今ではないのかなというふうに思っているということです。

○有馬座長 これまた質問ですけれども、この前の裁判でも医者の意見は随分聞いているし、様々なテストの結果とか、今までの病気の検討をした上で結論が出ていますね。それだけでは何か不十分なようなお気持ちですか。

○中山(水俣病被害者の会全国連絡会) いや、環境省がそれを認めないとおっしゃっていたではないですか。

○有馬座長 だから、そこいらをちゃんとすればいいんですね。

○中山(水俣病被害者の会全国連絡会) そうです。

○金平委員 先ほど橋口幹事長がおっしゃいましたけれども、ここに書いてございますが、今の時期がある意味ではこれまでの水俣病の歴史の中で、最も大事な時期と、こういうふうにおっしゃいました。大変重い言葉だと受けとめましたが、いろいろ思いはございましょうけれども、一言で言えばどういうふうにお考えでございますか。一番大事な時期ということは。

○橋口(水俣病被害者の会全国連絡会) 来年が50年という節目が来るわけですよね。それと私は非常に言いたいのは、ちょっとさっきも言ったように、誕生日が来ると私は80なんです。もう40年近くこの問題で運動してきた。私よりほかにこの問題ではっきりと分かったことを言える人がいるかどうか。私はそれの自尊心があります。だから、今回50年という節目を求めて、今回で完全解決するんだという心意気で環境省は取り組んでいただきたいなというふうに私は考えているわけです。私はもう後がないわけですね。夢にも描いています。そのことを、はっきりと環境省が答えを出していただきたい。これが最後なんだと、最後に来て水俣病を解決するんだ、このことを強く私は望みたいと思います。

○金平委員 ありがとうございました。

○有馬座長 どうもありがとうございました。
  まだまだお聞きしたいことはございますけれども、時間もまいりましたので、ここで水俣病被害者の会全国連絡会からのヒアリングを終わらせていただきたいと思います。
  本当にお忙しいところありがとうございました。

 

午後3時56分 閉会