中央環境審議会地球環境部会(第6回懇談会)議事録

日時

平成19年11月19日 14:00~16:00

場所

環境省第1会議室

出席委員

(部会長)  鈴木 基之
(委員)   浅野 直人 大塚 直
       武内 和彦 和気 洋子
(臨時委員)
       石坂 匡身 浦野 紘平
       及川 武久 逢見 直人
       鹿島 茂  川上 隆朗
       木下 寛之 小林 悦夫
       塩田 澄夫 住 明正
       富永 健  永里 善彦
       長辻 象平 西岡 秀三
       原沢 英夫 桝井 成夫
       森嶌 昭夫

議事次第

低炭素社会の検討について

 ○小宮山 宏 東京大学総長
 ○加藤 尚武 東京大学医学研究科生命倫理学特任教授

配付資料

資料1   低炭素社会に向けて「課題先進国」日本の挑戦
      (東京大学総長 小宮山 宏)
資料2   浪費から清貧への転換可能か?
      (東京大学医学研究科生命倫理学特任教授 加藤尚武)
資料3   中央環境審議会地球環境部会(低炭素社会検討)の開催日程

議事録

午後 2時01分 開会

○鈴木部会長 それでは、定刻となりましたので、ただいまから中央環境審議会地球環境部会、第6回になりますが懇談会を開催させていただきます。
 本日の審議は公開といたしておりますことを、まずご了承いただきたいと思います。
 それでは、資料の確認をお願いします。

○市場メカニズム室長 事務局から資料の確認をさせていただきます。
 議事次第の後に、資料1といたしまして、今日お話しいただきます小宮山先生の資料がございます。資料2といたしまして、同じく今日お話をいただきます加藤先生の資料でございます。それから、資料3といたしまして、1枚でございますが、今後の日程ということでございますけれども、最後、新しい日程といたしまして、12月21日木曜日の午後に地球環境部会を開催して論点整理をさせていただくということになっております。よろしくお願いします。

○鈴木部会長 よろしいでしょうか。
 それでは、早速議事に入りたいと思います。本日も引き続きまして、低炭素社会に関する有識者ヒアリング、こういうことで、きょうはお2人においでいただいております。東京大学の小宮山総長、それから、現在東大の医学系研究科の特任教授をしていらっしゃいます加藤尚武先生です。
 それでは、最初に小宮山先生の方から40分ぐらいをめどにお話をお願いしたいと思います。

○小宮山宏 わかりました。
 日本の課題先進国ということを私は最近申し上げておりまして、その背景、それから、エネルギーと環境のトータルビジョンとして、1999年岩波新書で「地球持続の技術」というのを書いておりまして、その中でビジョン2050というのを書いております。それは、2050年にこういう状況が実現できていれば人類は持続可能であるという年来の主張をまとめたもので、本日のご依頼の趣旨からすると、ここが中心になるのかと思います。最後に少し大学の方の取り組み、課題解決、先進国へ向かうという、こういうストーリーです。
 初めに、日本は課題先進国というようにみずからを考えるべきであろうと提案しております。これは、きょうの問題であります環境エネルギーの問題を初めとして、廃棄物の問題や少子化の問題、さまざまな問題がありますが、ともすると明治以降の習性で、ほかの国にモデルを探そうという気に、社会、お役人、政治家はなりがちであります。そういうことをしても、意味はない。日本という国は狭い面積で資源がなくて、人口が多く、またそこで世界第2位、10%の世界の富を生産しているという、こういう状況から問題が生じているわけです。よく考えてみると、中国、インドが2050年までには間違いなく先進国になりますが、今、世界にモデルを探そうとしてもまだどこにもありません。逆に日本がこの問題を先進的に解決すれば、それがむしろ世界のモデルになっていきます。これまでの歴史を振り返ってみても、それぞれの時代に先進的に課題を抱えた国が答えを出し、それが世界に広まっていく、それが歴史の一つの側面であるというとらえ方であります。
 それでは、日本を更に見てみます。ほかの物質でも同じだと思いますが、セメントの生産ということで見ていきますと、1960年ぐらいから1990年代ぐらいにかけて、セメントの同じ量、ここですと1トンのセメントをつくるのに必要とするエネルギーの量は半分以下に、40%ぐらいにまで下がってきております。これはいろいろなデータでそうなんですが、鉄でもプラスチックでも同じです。ほかの国のデータが見てみますと、特にアメリカは、同じセメントを作るのに、今、日本の1.8倍ぐらいエネルギーを使っています。それで、今までにプロセスが4代変化している。湿式法から乾式法、それからサスペンションヒーターというエネルギーを効率的に回収するシステムがつきまして、さらにニューサスペンションヒーターというさらに新しいものがつき、日本は今、理論的なエネルギーの値の1.6倍ぐらいしか使っていない、というところまでプロセスが進歩している。アメリカは大体、湿式法と乾式法が半々と言われております。中国のデータがよくわからないんですけれども、生産量だけはわかっておりまして、中国は今、世界のなんと45%のセメントを生産しております。つまりアメリカと中国が合わせて世界の半分ぐらいのセメントを生産しておりますから、そのうち40%ぐらいは、エネルギーの最先端の技術を入れればエネルギーは減るということです。こういう状況があるわけです。要するに、テクノロジーのトランスファーを世界にしていくことが、エネルギーの大きな変化になるということですね。日本は大体、こういうような物づくりにおいては非常に効率のいい国になっています。
 それから、使っているもののエネルギー効率も非常に高い。横軸に、車というのは重さをとります。縦軸に燃料の消費。これは燃費の逆数をとります。直線というものが一番数学的に美しいんです。逆数をとると直線になります。これはカタログから無作為に抽出しておりますけれども、明らかに欧米のつくっている車と日本でつくっている車では、同じ重さに対して20%の差がある。これはエンジンから─自動車というのは摩擦に抗して仕事を使う。摩擦というのは空気抵抗もあるんですけれども、普通のスピードですと、ほとんどタイヤと地面の摩擦です。摩擦は重さに比例しますが、ここで同じ重さに関して20%の差がある。だから、同じ重さの車が走っていても、日本ではガソリンが20%少ししか消費されていないわけで、これも大きなことですね。さらにハイブリッド車が出てきて、半分になります。
 私はマークⅡから、去年の3月にプリウスに乗りかえましたので、私のガソリン消費量は、それまでの3分の1に減って、今、リッター21.2キロというのが私の表示の記録です。世界中の人が私と同じビヘービアをしたとすると、ガソリンの世界の消費量は3分の1になるということであります。
 ここで幾つかのことを述べたいと思います。1つは、日本のエネルギー技術というのは非常に高いということ、もう一つは、普通に一般の人が考えるよりも、はるかに技術による省エネルギーの効果というのは大きいということです。10%、5%、そういう話ではなくて、一気に半分になる。ここが技術の大きさであります。
 また、環境に関して、日本は非常に気にしている国であります。これは、1キロワットアワーの電気を火力発電所から出すときに、何グラムの硫黄を発生しているかというデータでありますけれども、上が古くて下が新しい。上が1998年ぐらいで、下がたしか2003年ぐらいだったと思います。5年間ぐらいで大分欧米の国も脱硫をやり始めておりますけれども、日本はもうこれ以上落とせないというぐらいまで、ずっと低いところにあるわけであります。もちろん、すべての環境技術についてトップとか、そういうわけではないんですけれども、極めて重要なものの幾つかについて世界の先端であることは間違いないわけであります。
 それでは、なぜ日本がここまでエネルギーの効率化に力を使い、あるいは環境規制に力を入れたかというと、これは決して産業がモラルにすぐれていたからとは私は思いません。課題があったからなのです。石炭の時代には、一時100%近くエネルギーを生産していた時代もありましたけれども、石油の時代になってからは、もうほとんど全量輸入であります。したがって、国際的にエネルギーも高いわけですね。ですから、省エネルギーに向かうということが産業競争力の一つの要因になったということが大きい。それから、環境にしてみても、大きな国で生産地と人の住んでいるところとが離れていれば、まだ緩和されますが、日本は全く異なる状況があったわけです。これは北九州、洞海湾のあたりになりますけれども、発生源のすぐ近くに人が住んでおりますから、ひどい公害を経験したわけです。つまり課題があったから国は規制を強めざるを得ませんでしたし、自治体はさらにそれに上乗せして規制を強めました。しかし一方で産業も操業しなくてはなりませんから、それらの規制に対応したということだろうと思います。つまり、課題のあるところが解決するということです。洞海湾も一時は非常に酸性度が上がってしまい、6回停泊したらスクリューが半分溶けてしまったというような写真が出て、世間が衝撃を受けたのは多分ご記憶かと思います。それが今はここまで回復しておりますね。こういうことが日本中で起きているわけです。
 これは四日市です。私の小学校の教科書には明白に、もくもく工場から煙が出ているのは、日本の発展のあかしであると書いてありました。ですから、左側というのをむしろ推進したわけですね。それで手ひどい目に遭いましたが、しかしここまで回復してきております。
 また、ごみでも、藤前干潟の例は多分記憶に残っておられるかと思いますけれども、渡り鳥の営倉地であったところをごみの埋立地に使おうということになって、反対運動が起き、名古屋市は結局ごみを減量することで対応しようといたしました。16種類に分別するようになって、それでごみの量が減ったんですけれども、かなり細かく分別しているので焼却するごみ自体が減って、焼却した残渣も減りました。焼却して燃え残るというのは金属とかガラスとかですので、そういうものがなくなったので、何と焼却残渣が10分の1に減った。それでごみを埋め立てる必要がなくなって、藤前干潟は今も市民憩いの場として残ったという、非常にいいストーリーが過去にはあるわけです。
 隅田川でも、最近は天ぷらを食べながら一杯飲めるという屋形船の観光があるんですが、一時はとてもくさくてできなかった。そこに白魚が上るまでに回復してきているのです。私が申し上げたいのは、課題先進国─今、ドイツが環境に関しては先進国だと言われるわけです。もちろん先進国の間に何において先進しているかというのはいろいろあるわけですけれども、しかし日本は間違いなく先進国の一つであって、今、日本の文化とも関係する環境問題、エネルギー問題というものの答えを海外に見つけようと思ってもない。それに日本が自ら答えを出していく。しかも、日本が出した答えは21世紀の地球の未来像で、しかもアジアに位置するということで、日本の開発したシステムというのはアジアに入りやすいという極めて恵まれた状況にあるわけであって、そこに日本は集中すべきであろうと私は考えております。モデルが成功すれば世界に導入される。したがって、自分の問題には自分で答えを出すという思いを明確にすることが重要だろうと思います。環境の回復、省エネルギーの実現といった、長期のエネルギー環境ビジョンの中で最も重要なものに関して、世界に先駆けて答えを出してきている実績もあるということであります。
 さて、そういうのは少し精神的な思いを込めて申し上げたんですけれども、ビジョンの2050、これはエネルギーと環境に関するトータルビジョンを提案したというつもりでおります。そして、このことはかなり難しい話でありまして、エネルギーの一つの側面、あるいは環境問題の一つの側面、リサイクルを推進すべきであるとかいう一つの側面を言うのは易しいですが問題は、例えば地球温暖化とか、大量の廃棄物であるとか、資源の枯渇であるとか、少なくとも3つぐらいの基本的な問題があるわけです。これらを同時に解決するシナリオでないと答えにならないわけですね。そういう意味で、全体像を出すということが極めて重要であります。そのときには、原理的に言うと、1億枚ぐらいあるジグソーパズルのピースから目的とする完成図をつくるということが必要となって、ここが難しいと思うんですね。
 ですから、最近、今年ですか、IPCCがノーベル平和賞をもらったのは、私は非常に象徴的で、とてもいいことだったと思っております。IPCCが何をやったかというと、みんな温暖化に関していろいろなことを言っているわけです。例えば平均気温が1世紀で0.7度上がったということでも、並大抵ではないわけです。あっちは3度上がるかもしれないし、こっちは1度下がるわけでして、海はほんの少ししか上がらないかもしれないけれども、シベリアのあたりは2度上がったとか、成層圏に行くと温度は逆に下がるんですから、そういったようなさまざまなことを考えると、0.7度上がったというだけでも、これは大変膨大なデータの構造化が必要となります。私はこれを知識の構造化と呼んでおります。さらにそれが、60%が人為起源である可能性が90%の確率、もう少し最近踏み込んだんでしょうか、あれは何をやったかというと、膨大な知識を構造化したんだと思うんです。そのことがこれから非常に重要になるだろうと、私は、この環境とエネルギー問題のトータルビジョンという形で、みずからの構造を1つ提案したという思いであります。
 少し詳しくお話をさせていただきます。結論は、エネルギー効率を3倍にすること、物質循環システムを構築すること、自然エネルギーを2倍にすること、これを2050年にもし人類が実現できていれば、その先、人類は持続できるだろうということです。エネルギー効率3倍なのか、10倍というような話もいろいろあるわけですけれども、私は、3倍というのが2050年の極めてよい目標で、合理的な目標だというふうに考えております。物質循環システムの構築というのは、基本的な物質です。鉄に代表される基本的な物質、こういうものの循環システムを構築するということであります。細かくは、紙を最後どうするかとか、プラスチックはどのようにすべきかとか、細かい問題はいろいろあるのですが、いずれにしても、そういうトータルな形での物質循環システムを構築する。自然エネルギーも、たった2倍かといわれますけれども、技術屋として2倍ぐらいを目指すのが適切で、今、全エネルギーのうちの8割が化石資源ですが、残りは原子力も含めて20%ぐらいある。これを2050年ぐらいまでに倍ぐらいまで持っていくというのを目標にすべきではないかというのが、私の提案の3つの大きなメッセージです。これを、なぜ妥当かということを論理的、技術的に詰めていったというのが、この提案であります。
 その中身はどういうことかというと、1990年代の前半に主としてやった仕事ですので、当時、化石の炭素換算でもって60億トン使われている。今はもう少しいっているんでしょうね。60億トン使われておりまして、非化石部分が15億トンで、この非化石の中身はバイオマスと水力と─まきとか牛のふん等ですね。バイオマスと水力と原子力で、これが20%。80%が化石資源。それで、2050年までに成り行きでいくと、ほうっておけば安いのは化石資源。特に石炭ですから、どんどん化石資源が増えていくということで、あのときに考えたのは、2050年には途上国がどんどん成長して、サービスの量が3倍になるだろうというふうに考えた。例えば自動車も、今7億台くらいでしょうか。中国とインドが増えますから、それが3倍ぐらいまで増えていくでしょう。そうすると、エネルギーが当然それに伴って必要なわけですが、ほうっておけば石油、石炭でいくだろうというふうに考えました。恐らく非化石の部分というのは増えないだろう。ほうっておけば水力も増えない、原子力も増えない、バイオマスも増えないだろうということで、これだと二酸化炭素の濃度は2050年に600ppmになります。それで、もうこれは破滅のシナリオですね。化石も、300年もつという石炭も、この調子で使っていけば21世紀中に枯渇しますので、これは資源的にも温暖化の面からも、恐らく環境面からも破滅のシナリオ。ただ、今、中国を中心に、このシナリオでほとんどいっているわけですよね。中国のほとんどの大きな膨張というのは、ざっと言うと石炭で支えられている。だから、大体このシナリオで進んでいる部分があるわけです。
 じゃ、ビジョン2050。エネルギー効率を3倍にします、だから3倍のサービスがあっても、エネルギーのトータルの使用量は今と同じぐらいで間に合うでしょう。1990年代ですけれども、賄える。それで、バイオマス、水力、原子力で15%、15億トン、20%相当であるのを倍にしよう。主力はバイオマスと水力と風力と太陽光ということだと思いますけれども、これができれば、太陽のエネルギーというのは、今、人類が使っている量の1万倍来ておりますので、22世紀以降は、ここまで来た技術の蓄積と社会のコンセンサス、いわば勢いでいけるだろう。それで、22世紀以降に別にこのエネルギー使用量にこだわる必要はないわけで、例えば太陽エネルギーで充電された電気自動車がばんばん走るという状況があったって─わかりません、それは文明的なものもあれですが─よいだろうというのが私の基本的な考え方であります。だから、2050年あたりが重要になるわけです。
 そのときに、まずエネルギーについて申し上げたいと思うのですが、私は、省エネルギーというのが一番大切、ここにまず全力を注ぐべきだというのが年来の主張であります。そのときに、省エネというと2つあります。節約、むだを排しようよ、ライフスタイルを変えようよという考え方と、それから、効率化しようよという考え方。両方重要だと思います。ただし、量的に期待できるのは技術、効率化だと思います。これはいろいろ環境の先生とも随分話をして、節約の方が重要だ、ライフスタイルだと言う。では、ライフスタイルでどのぐらいいけるだろうか。多いという人でも20%ぐらいまでしかおっしゃいませんよね。しかし技術というのは、先ほど申し上げたように3分の1というふうになれる。だから、効率化だけでまず考えて、その上にライフスタイルの効果というのが加わればより楽になると、そういう考え方です。
 そうしますと、基本的にどんなふうに考えているかというと、輸送は、サービス当たりのエネルギー消費が4分の1。要するに、4分の1のガソリンで同じ自動車が走るということであります。これを言いだしたころは、まだハイブリッドが出ていなかったものですから、フィージビリティーが極めてなかったので、ハイブリッドが出て、もう半分にはなったわけです。あと1つは軽量化です。先ほど申し上げたように、自動車のエネルギーというのは重さに比例しますので、軽量材もいろいろございます。それから、さらにはハイブリッドがプラグインになって電池の性能がよくなります。そしてやがて電気自動車になれば、発電効率とエンジンの効率との差で4分の1というのは、私は2050年の目標としては極めて妥当な目標だと思っております。
 家庭・オフィスも同じく4分の1ぐらいになるべきです。機器の効率、それから断熱、発電効率等々を総合して4分の1ぐらいにすべきでしょう。だから、ゴアなんていうのは、もうとんでもない。映画は間違いもありますがすばらしかったと思います。けれども、1年間の電気代が3万ドル、300万円。しかも、アメリカの電気代って、大体日本の半額ぐらいですから、日本でいうと600万円を電気代に年間使っていることになります。後から申し上げますように、私の家の電気代は5万円にしましたので、5万円と600万円ですから、やるべきことはやっていただきたい。
 素材づくり、こちらも後から申し上げるように、鉄の高炉の生産効率が3倍上がるとはあり得ませんけれども、さまざまな効果でもってトータル3倍に効率が上がるというのは妥当な目標だと思っています。
 それでは、省エネルギーというのをどんなふうに考えていくべきかということですが、ここのところがほとんどやられていません。省エネ、省エネと言う人も、今までここまで省エネが来たから、この後もこれぐらい進むだろうと、こういう議論が多いわけです。その議論ではだめで、要するに、省エネルギーの議論というのは理論があるんです。エネルギーの問題というのは、人間はここを超えられないという明確な理論がございます。
 例えば、海水の淡水化というのは必ずエネルギーを消費するものですが、それはこういう理論になります。非常に単純で、半透膜があります。セロファンがあって、一方に海水があって、もう一方に真水がある。そうすると、真水が海水の中にしみ込んでいく。浸透圧ですね。これはもう海水の濃度だけで決まっていて、これは24気圧でしみ込むんです。どういう意味かというと、海水の周りに24気圧をぐっとかけると、これ以上水がしみ込んでこれなくなるんです。それを80気圧かけると、こっちも逆に80気圧かけると、海水の中に入った真水がこっち側にシャーシャーと出てくるというのが海水の淡水化なんですが、そのとき最少のエネルギーというのは、24気圧に堆積を掛けたものが最少のエネルギー。これは決まっているんです。理論のすごいところは、海水から真水をつくる方法というのは、蒸発して凝縮させるとか、凍らせて、凍らせると塩と分離するので、塩を振り払って氷だけ溶かすと、いろいろな方法があるんですが、どんな方法をやっても同じことで、1リットルの海水をつくる最少のエネルギーというのは1リットル掛ける24気圧なんです。これが理論のすごいところです。ですから、海水の淡水化というのは、多分もう成功していると思いますけれども、R&D、80気圧だったのを50気圧にしようとやっていましたから、エネルギー消費は8分の5になる。効率は1.6倍になるわけです。でも、どんなに頑張っても省エネの最大値というのは56気圧分しかない。3.5倍ぐらいになるというところまでしかいきようがないというのがあって、理論と現実との差を技術でどうやって埋めていくかというのが省エネのあるべき議論の仕方であります。
 例えば、これをエアコンに適用すると、300というのは室温の絶対温度です。273を足すと絶対温度になりますね。だから27度だったら300ケルビン。それを室内外の温度差で割ったもの。室温が28度で35度が外だったら43というのが、これが理論です。これはどういうことかというと、1キロワットの電気を使うと43キロワットの冷房ができる、あるいは暖房ができる。これはどんな方法を使ってもここは超えられません。ところが、1998年で調べてみると、これが4だったわけです。これはどういうことかというと、理論の11倍エネルギーを使っているということです。ここまではもう理論とデータで何の疑いもないんです。この先が大変なんですね。それでは、4と43の間はどこまで詰まりますか。ここはもう本当に三菱電機や日立など、私なんかよりも中身のことを物すごく詳しく知っている人たちと本当に詳しく議論をして、当時、12までいくだろう、2050年、12というのがいい目標だろうという議論をいたしました。これがエアコンだったら、エネルギー効率は3倍まで上がるというふうに我々は考えたわけであります。
 ところが現実は、2004年に6、2005年に7というのが出てきました。そう遠からず8が出ると思うんですね。つまり、1998年当時の実績に対して、もう10年ぐらいで倍ぐらいまで効率が上がってしまうということで、だから、3倍と言うときには相当勇気を振るって3倍と言ったんですが、4倍と言っておいた方がよかったなと、最近少し反省をしております。こういう議論の積み重ねが、省エネがどこまでいくかということなわけです。これを自動車とか製鉄とか、そういういろいろな大きなセクターに関してやりました。
 私は、これらを家で実験していて、私より環境省の小林さんの方が、エコハウスのあれはずっと上だということはわかっているんですけれども、私の例を紹介します。私も、5年程前に家を建てかえるチャンスがあったのですが、全部市販のもので使えるものでやっただけで、多分前の家の3倍ぐらい断熱効率が上がっています。要するに、同じ状況を設定するのに3分の1のエアコンで済んでおります。これとエアコンの効率が3倍に上がれば、9分の1で冷暖房ができるということであって、これぐらい技術というのは大きいのです。ですから、寒いけれども我慢して消しましょうというのが節約、ライフスタイルの問題です。ちょっと計算違いをしましたので、エネルギーの自給率は100%いかずに60%しかいっていないんですけれども、エネルギーコストは5万円ということで、太陽電池は高い、高いと言いますけれども、私が太陽電池に払ったのは200万円。多分この家で前の家と同じようだと、これはガスを使っていないですから、オール電化ですので、多分電気代は30万円ではききません。そうすると、30万円が5万円になって、1年間で25万円もうかることになります。そうすると200万円だから、8年ぐらいですか。

○地球環境局長 8年。

○小宮山宏 つまり、もう取り返しているわけです。
 実は3万円減ったうちうちの半分ぐらいは断熱の効果でもってエネルギー消費が減っているんですね。太陽電池が発電した電気代そのものは11万円になるんです。東京電力から買っていただいている電気代。だから18年。そんなものですよ。ドイツのメルケルがこの間来、ドイツは非常に自然エネルギーの優遇策をやった。彼女が言っているのがちょうど18年と言いましたね。ですから、日本は同じようなことをやっているのです。やっているんだけれども、ちゃんとコンセプトを持って言わないから、メルケルあたりにお説教されて「そうですか」と言って聞いているという状況になるんです。ここが私は一番歯がゆいところであります。ぜひコンセプトを明確にして実践しましょう。これがとても大切です。
 ビジョン2050で先ほど申し上げたのは、世界全体での話をしております。世界全体でサービスが3倍になる、自動車も3倍走る。日本ではもう増えませんから、むしろ人口が減っていくという効果の方が大きいわけですが、私は、エネルギー効率が3倍になるから、2050年、エネルギーの消費量は3分の1になると本気で考えております。既に1990年以降初めて、去年ガソリンの消費量が日本で減りました。これは、7,000万台しか走らなくて、もう自動車の数は増えないんですから、それの燃費がどんどん上がっていくわけですから、その分よくなる。それがそろそろ出始めたということで、去年既にガソリンの消費量が減り出した。これがどんどん進むようにすればいいというふうに思います。自然エネルギーを2倍にする。そうするとCO2が3分の1ぐらいになるというのが大ざっぱに言ったビジョンであります。
 そして、これをもう少しエネルギーの供給の方から考えていきますと、エネルギーの消費量が3分の1になるということは、今、電気が大体3分の1ぐらいです。今、1を現状としまして、電気が0.33、これに対して、相当量が電気でもって消費されることになると思います。途中でガスが絡んだりということは別にして、最終形態は電気ではないでしょうか。そうすると、残りは、これも電気自動車になっているかもしれないですが、可搬燃料があって、今16%、0.16ですから、それの平均が3分の1の燃費になれば、ちょうど0.05になります。そして全供給量が0.33、残りぐらいが熱というような形でしょうか。そうすると、今、水力が電気の8%、全エネルギーの3%ぐらいです。そうすると、バイオマスとか、太陽電池もかすだと言われておりますが、日本の屋根全部に置くと、大体水力の倍近くぐらいのポテンシャルがあります。それで、風力も全部合わせて、今の水力の4倍ぐらい。まだ水力でも中小水力みたいなものも残っておりますので、総がかりで自然エネルギーを頑張れば、今のエネルギーを1として12%ぐらい、0.12ぐらいにはなり得るんではないでしょうか。そうすると、かすではありません。特に全体が0.33ですから、そうすると火力と原子力で電気を0.13ぐらい、0.25ですからあと供給しなくてはなりません。そうすると、ちょうどこれは原子力の量ぐらいです。ここは判断です。原子力を今後どうするかというのは、人類の極めて重要な判断だと思いますが、私自身は、原子力は、人類にとって20世紀の後半から21世紀にかけての過渡期のエネルギーだと考えておりまして、21世紀の特に前半は原子力が頑張らないととてももたないというふうに考えている方であります。しかし、22世紀には太陽にいけるだろうと思っているわけですが、もしこのとき、原子力が今と同じぐらい動いていると、これが全部電気になりますので、0.33との差、8、これは要するに現在の8%にまでCO2を減らせるということにもなり得るわけで、環境研が書いたシナリオというのは、大体要するにこういうことではないかというふうに思います。
 鉄は今でも一番量の多い基幹的な物質なわけですけれども、これが基本的にリサイクル物質だということも、やはり人類にとっては非常に重要な僥倖だと私は思います。要するに、鉄というのは1回つくったら、タイタニックとか戦艦大和とか、あのように沈んでしまった部分を除けば、1回高炉で還元すると、基本的には、さびたとか細かいことは除いて、永久に地球上にあるんです。1990年代の後半に100億トン、船や自動車であったわけですが、もう既に毎年5億トン還元して、これがふえていますので、もう150億トンぐらい実は地上にあるんです。スクラップがこのとき3億トンでしたが、これは鉄が平均的なライフ、30年で回るから3億トンで出てきている。このままの調子で、今もう5億トンじゃなくてもっと増えています。このまま行くと、2050年には恐らく今の調子だと400億トンぐらいいってしまうのですが、三百数十億トンぐらいあちこちでたまる。そうすると必ずスクラップが出てきます。どれだけ出るか。30年でやはり同じように回るとすると、10億トン毎年出てくるんです。今、12億トンぐらいつくり出しているでしょうか。12まではいっていないですかね。11億、10億トンぐらい、今、鉄全体だと思いますけれども、それと匹敵するスクラップが出てくるんですね。これをどうするんですかという問題。要するに、極論すると高炉が要らなくなるということです。だから、それはどういうことかというと、極めていい鉄は高炉でつくって、それを調製して、自動車もそうでしょうか、わからないですね。高級なものをつくるんですが、残りのものはリサイクルの鉄で回せるような形を我々は設計しなくてはいけないということです。そうでないと、どんどん廃ビルを海に埋めて漁礁にしようとか、そういう悪徳商人が活躍するようになるわけです。
 リサイクルの方がエネルギーが小さくて済む、これもとても重要なことです。それは、高炉というのは還元するから。酸化鉄から酸素を取るのが基本的に高炉です。これに対して、鉄を溶かすのが電炉です。リサイクルです。融解熱というのは反応熱の5分の1しかありません。基本的に電炉の方、リサイクルの方がエネルギー効率がいいのです。ですから鉄の品質が悪いのに電炉がどんどんいくわけであります。これは人類にとって僥倖であると同時に、水平なリサイクル、自動車から自動車をつくるというリサイクルに我々が設計していかなければいけないということです。
 最近、リサイクルはだめだという武田さんの本が物すごく売れて、私は読んでいませんけれども、今のリサイクルの中でエネルギーが損をするリサイクルというのは、僕はあると思います。プラスチックも一部探せばあると思います。だけれども、それは現状の分析であって、将来の洞察には役に立ちません。大事なことは、鉄で言ったように、論理的にどうかということと、技術でいけるかという、将来を洞察するのはこの2つなんです。もう言いませんけれども、バイオマスにしても物質循環というのは省エネルギーにもっていくことが可能なはずです。可能です。これが論理であります。
 それから、僕はバイオマスはとても大切だと思います。サトウキビ、これは相当いくと思っています。トウモロコシ、これはだめなのではないかと。食料との競合で、増産できた部分しかバイオマスというのは使えません。食べているものを使うわけですから、要するに増産余地の問題です。その中では、米というのは大いに増産余地があると思います。ベトナムは3期作やっているけれども、日本の1期作と大体同じぐらいの生産量しか上げておりません。さらにそのときに重要なことはエネルギー収支。エネルギー収支が成り立つようなバイオマスの生産というのをやっていかなければなりません。これも先ほどの、今どうかという問題と、2050年に向けて未来の設計にどうかという、ここの問題が極めて重要になります。
 CO2の問題でマジックハンドはないと言われます。私は、マジックハンドは確かにないのかもしれないけれども、あるとすれば定量的な理解だと思います。節約も大事、ライフスタイルの問題も重要。効率化の技術の議論も重要です。やはり大きく期待できるのは技術です。技術でどれぐらいいけるのかという、この議論を定量的にやること。マジックハンドがあるとすると、私はこのような定量的な議論だと思います。
 そして、今日申し上げなかったけれども、例えばエコハウス。アジアで日本がエコハウスをつくれば、全く同じ経験を中国などがすることになるわけですから、日本のエコハウスはアジアに導入され得るわけです。同じモンスーン地帯、冬に露がついて困る国、気候です。これが日本の国際競争力にとって非常に重要なことだと思います。
 実はこの先に、大学がどれだけ重要かというデータがあるのですが、ここでとめたいと思います。ご静聴ありがとうございました。(拍手)

○鈴木部会長 まだまだあと2時間ぐらいお話がありそうなんですが、残念ながら、この段階で……。また機会があると思いますし、この段階まででいろいろご質問が……

○小宮山宏 
 実は、大学を大切にしよう、そのような話をしようと思っておりました。大学のネットワークはとても重要で、これは鈴木先生にやっていただいているものですので、後で委員長からご説明いただくと一番いいかもしれません。
 今度のG8サミットの前にThe G8 University President's Summitをやるということで、少し日本からインプットして、大学の方からも何かできないかと考えております。以上でございます。

○鈴木部会長 いかがでしょうか。ご質問等おありの方は、名札を立てていただいて……。ちょっと時間が限られていてあれですが、では、桝井委員、西岡委員の順番で。それでは、最初にご質問をいただいて、まとめてお答えをいただきましょうか。

○桝井委員 1点だけお伺いしたいのは、先ほど、エネルギー供給2050、23ページで原子力についてお触れになり、20世紀後半から21世紀のエネルギーとしてこれは大事で、21世紀前半はこれがないともたないと。だけれども、その次はいろいろな変化もあり得るというようなことをおっしゃったんですが、この原子力の位置づけをもう少しお話を伺いたいと思います。

○鈴木部会長 では、西岡委員。

○西岡委員 どうもありがとうございました。少し私どものシナリオについてメンションしていただき、どうもありがとうございました。大体数字は本当にこのとおりになっている。ですから、非常に我々、一生懸命モデルを細かく回しながらやったのと、さすがに洞察力が違うなと感じました。
 ただ、ちょっとお伺いしたいのは、ちょっと時間が少なかったのでお話をお伺いできなかったんですけれども、これを実現するためにどうするかというところですね。どこにネックがあるんだろうか。定量的理解ということは確かにそうだと思います。日本はなかなか理屈で言っても理屈どおりにはいかないよという話でおさまってしまうので、今、どういう形でそれを普及していくかということに力を入れているものですから、何かそれこそ導入のためのマジックハンドがあったら教えていただきたいと思います。

○鈴木部会長 あとはよろしいですか。
 じゃ、ちょっと私も1つ伺いたいんですが、やはり熱力学的にというか、あるべき姿、あるべきエネルギー、必要とされるエネルギー消費量であるとか、その辺を例えば鉄鋼なんかを例に引いてのお話、やはり非常に重要なんですよね。それに比べて、一体省エネをしていく段階がどれぐらいまでいっているのか。ただ、それを突き詰めていきますと、最終的に、例えば2050年でどういう産業構造であるべきなのか、どういう社会を我々が求めるのか、ライフスタイルとしてはどうあるべきなのか、結局そういうところに一種の価値観みたいなものを持ってこなければいけなくなる。その辺のところは、今のお話ですと、現状の形を想定して、その延長上にという感じだったと思うんですが、ここに2050年の92億の地球上の人口が、みんなが公平に生きていくということになると、その辺はどういうふうに……。例えば鉄なんかは何億トンあればいいのか。ストックとしてどれぐらいあって、どう回ればいいのか。そういう議論というのはできますかね。その辺、どうでしょうか。

○小宮山宏 原子力に関する議論が世界中で、いろいろな議論のいわばデッドロックといいますか、そこで議論がとまってしまうみたいなところを私は一番前から気にかけていまして、正直、私には両方のシナリオがあり得ると思うんです。特に22世紀以降です。22世紀以降に極めて安全な原子力というものが出てくる可能性、それから高速の増殖炉などでも極めて安全なものが出てくる可能性というのを否定はできない。特に技術屋としてそのように思います。ただ、どうも私は、自然エネルギーでいけるのではないかと思っているんですよね。その根拠は今日は申しませんけれども、一番大きな根拠は、太陽エネルギーが今、人類が使っているものの1万倍来ているというのが一つの根拠です。もう一つは、太陽電池、バイオマスといったようなもの、あと風力。この3つ、相当に伸びるんじゃないかというふうに……。特に太陽電池なんかは、私がわずかに投資しているベンチャーが成功しますと、それだけでもコストが3分の1になりますし、太陽電池というのはまだまだ技術的にもコスト的にもいくと思っています。そういうことを考えると、やはり自然エネルギーと原子力との競争になると思います。私はそのときに、どうも自然エネルギーの方が勝つのではないかと思っておりまして、それだと、やはりその方が人間にとっては、人類のサスティナビリティーにとっては安心なのかなという気が個人的にはしています。
 ただ、一方で今、電力は、日本ですと一時はもう40%ぐらい、キロワットアワーで電気を供給していたわけで、これで刈羽がああなったぐらいで、もう京都プロトコルの達成に相当の影響を与えているといったように、原子力が相当の部分になってくるということは明らかなときに、エネルギーというのはそう急に変えられませんから。一番恐らく人類の歴史の中で急速に量的に意味を持つようになったのは、やはり原子力だと思うんです。夢のエネルギーというふうに言われて、最初の商業炉ができてから30年かかって、ようやく世界のエネルギーの1%を供給するまでになった。どんなにうまくやってもそれぐらいかかるんです。ただ、太陽電池は、今はもうシリコンの原料が逼迫してつくれないわけです。これもいずれ化学会社、鉄鋼、窯業会社が頑張りますからネックは解けますけれども、また今度別のところがネックになって、やはり自然エネルギー、特に小さいものが膨大に入ってくるというプロセスは、やはり1世紀かかるんじゃないかというふうに私は思うんです。ですから、自然エネルギーが世界で2倍というのは極めて控え目なあれしかしていないわけですけれども、僕は技術屋としてそれが精一杯だと思います。原子力に関して言うと、今言ったような20世紀の後半から22世紀にかけての過渡的なエネルギーと考えるべきなのではないかと申し上げたのは、そういう意味であります。
 もう一つ、西岡先生の話は、何かパワーをつける、あるいは普及させるマジックハンドはないのかという話で、僕は、今回アル・ゴアとIPCCがノーベル平和賞を取ったというのは、そういう意味では非常にいいことなんですが、やはり問題は、温暖化だけじゃなくて、さっきのリサイクルの問題1つとっても、学者の世界でもって反対のことを言って膨大に本が売れているという状況もやはりあるわけです。
 この間、高校生に関する講義というのをやっていまして、インターネットを通じて30数校に行くんですが、そこで高校生の質問を受けたんです。最初は30分の予定だったんですが、1時間半、引きも切らない。高校生が物すごく暗いイメージしか持っていないのです。日本に対する暗いイメージです。日本がとても悪い。環境に関してもエネルギーに関してもとても悪いと。考えてみると、やはり大人がそう思っている人たちが多いし、特に小学校の先生たちは何を根拠に教えるかといったときに、3Rなんて国が言っていたって、片やリサイクルはだめだよという本が売れるわけで、こういう問題に対して科学者のコミュニティーがやはり統一した答えというのを僕は出すべきだと思うんです。それはもちろん、こういう考えとこういう考えがあって、それぞれこういう根拠があるから、まだ答えは出ないよ、これでもいいんですけれども、やはりそれを出さないと、先生たちが一人で何かを言っているというのでは、こういう問題は僕はだめだと思います。ですから、マジックハンドは、そういう意味で大学のネットワークにお金を出すことです。
 最後の鈴木先生のお話は、実態を申し上げますと、私たちはこの2050を書くときには、現状の延長で絵をかきました。それは極めて雑駁に、どれぐらい都市が─中国はもう相当海岸地帯はできた。でも、この後どんどん内陸に入っていって、そこでは鉄はずっと使われる。インドも2050年までには進むだろう。そうなったときに、今、鉄というのは一体どれぐらい要るんだろうか。アメリカには既にできていて、日本には既にできていてというところを見てみると、3倍なんじゃないか。これは極めて粗っぽい仮定ですが、自動車に関してもそういうような仮定で、3倍ぐらいサービス量がふえれば、発展途上国と現在の先進国との間がぎりぎり納得できる。先進国は、例えば自動車をこれ以上ふやすとか、そういうことはもうやらないわけです。エネルギー、物質に関するサービスに関しては、今ぐらいでもういい。あとは回すんだということです。2倍ふえた部分は途上国が持っていくということあたりが、技術で効率3倍ということと、ちょうどぎりぎりバランスするところではないかというふうに考えただけで、先生のおっしゃるような、もう少し基本的なパラダイムが変わってくるのではないかというところまでは考えておりませんが、そこがスタートではないかと思うんですね。そこからパラダイムシフトという話になるんではないかなと、そんなふうに考えました。

○鈴木部会長 まだまだいろいろ伺いたいこともあるんですが、残念ながら時間が参ってしまいましたので、それでは小宮山先生、どうもありがとうございました。また機会を見つけて……。

○小宮山宏 ありがとうございました。どうも失礼いたします。(拍手)

○鈴木部会長 それでは、続きまして、環境社会学をご専門としていらっしゃいます加藤尚武先生。東京大学の今、特命教授となっておりますが、何を特命……。

○加藤尚武 生命倫理を……。

○鈴木部会長 生命倫理。医学部の方で今、お勤めになっていらっしゃいます。
 では、また40分ぐらいということで、加藤先生、お願いいたします。

○加藤尚武 昔から、人間の欲望は無限かという質問をよく受けることがありまして、人間の欲望が無限で資源が有限なのだから、必ず欲望と資源とは不一致といいますか、ギャップが発生するのだと、それが人間の宿命なのだという、そういう話をよく聞かされます。しかし、人間の欲望は無限だということを述べた最初の思想家はだれで、それはどこのテキストに載っていますかと聞くと、大抵の哲学者はまず答えられないんじゃないかと思います。そして、無限という言葉も、インフィニティブとかインデフィニティブとかいうのは、必ずしも現代的な意味で無限ではなくて、形が定まらないとか、自分で抑えようと思っても抑え切れないときには無限という言葉を使われた。限度がはっきりしないという意味で使われたことがあるわけですね。それで、恐らく厳密な意味で人間の欲望が無限だという意味で使われたのは、恐らくホッブス、17世紀ぐらいであって、ギリシャやそれ以前の段階では、無限という言葉は欲望について余り使われていなかったのではないかと思うんですね。例えば、ギリシャ神話の中ではヘラクレスの偉業というのがありまして、彼は何と人間離れした力を持っていて、一晩で50人の娘をはらませたというんですけれども、何だ、せいぜいたった50人程度かというので、全然無限でも何でもないわけです。
 ところが、人間の欲望が、20世紀になりますというと、欲望を満たしても満たしても、もっと欲望がふえていくんじゃないか。欲望というのは、例えば喉が乾いた人が水を飲んでいけば、だんだん水を飲みたくなくなるのが自然であるのに、人間の社会全体として見ると、欲望を充足させればさせるほど、もっと欲望が渇望となって増えていって、そして欲望の充足を次に求めていくという、そういういわば過剰消費の体質というのを20世紀の世界の文化というのは示し始めた。だから、自然の欲望というのは、ある一定限度まで満たせば自然に静まっていくべきものが、実は静まっていかないで、欲望がまた次の欲望を生み出してしまうというメカニズムがどこかにあるということが問題なので、自然の欲望そのものが無限だから欲望と資源とが対立し合うという関係ではないのではないかということが問題になるのではないかと思います。
 そこで、欲望が無限であるとするならば、持続可能ということもあり得ないかもしれないわけですけれども、どこかで欲望そのものの限界というものが見えてこないとおかしいということになると思います。20世紀から21世紀にかけて、わかりやすく言えば浪費から清貧への転換というんですけれども、私自身は清貧でも何でもないし、よく日本史教師をやっている人からは、これからは清貧の時代だから、清貧の思想の研究を積極的に進めるべきだ。それで、あなたはなぜ今まで清貧主義をもっと語らなかったのかというので、清貧というのはみんなに押しつけると必ず嫌がられる。例えば江戸時代の天保の改革だとか寛政の改革だとかというのは、みんな倹約、質実剛健というのを無理やりに押しつけて、大変江戸の人たちからひんしゅくを買いましたし、戦時統制経済というふうなものも不人気でありますから、できましたら小宮山先生のように技術レベルですべて吸収すべきものは吸収し、個人のプライベートな生活の中で禁欲を強いるというようなことはできたらやりたくないと、そんなふうに考えてまいりましたけれども、どうも消費部門というか、日常生活の部門でもエネルギーの節約ということは、単に5%、6%という規模ではなくて、50%、60%という規模で実現しなければならないのだとすると、清貧というものももう一遍考え直さなければいけないかもしれないと、そんなふうに考えていました。
 そこで、今日は、持続可能性とは何かといったら、この中で「経済学は有効か」と書いてあるんですが、経済学の先生もおられるかと思いますが、経済学について、実はどこに問題があるのかということを今日述べてみたいと思います。
 清貧の思想というので代表的なものが幾つもありますけれども、大体清貧の思想って、世界中の思想を集めても余り多様ではなくて、大体似たようなことをいろいろな人が言っているという感じではないかと思います。そこで、生活の中でどうするかという問題が持ち上がってくるのではないかと思います。
 まず、持続可能性とは何かということですけれども、大体世界全体の経済成長が進行するという考え方は、20世紀の60年代ぐらいまでは大変何度も語られてまいりましたけれども、70年代になりますと、世界全体としては成長が限りなく右上がりで続くのではなくて平常化に向かうのだけれども、部分的には経済成長が可能だという、そういう考え方に転換してきたのではないかと思います。これがさらに経済成長よりも、むしろ持続可能性の方が重要であって、経済成長を犠牲にしても持続可能性を守るべきだという、そういう転換を、例えばドイツのブリューガーなどは主張していると思うんですけれども、そういうふうな大枠の転換がこれから起こるのではないかというふうに思います。
 そして、進歩というのは、19世紀には哲学者の夢であったわけでありますけれども、20世紀の先進資本主義国ではそれが現実になりました。しかし、ローマクラブ報告のときから、資源の限界だとか廃棄物の累積とかということが見えてきて、いわゆる進歩というものが単純に継続するというふうには言えないで、進歩の継続する条件ということが追求されなければならないということになったわけで、それが持続可能性の議論になってきていると思います。ただ、持続可能性の議論といっても、持続可能な発展の条件を追求するというのと、持続可能性そのものを追求するというのではかなり考え方が違っておりますけれども、普通、ソフトサスティナビリティーの立場というのは持続可能な発展の追求であり、ハードサスティナビリティーといいますと、持続可能性そのものの条件追求というふうに、よく環境関係の書物、教科書などでは載っているかと思います。
 そのハードの代表格といいますと、アメリカの経済学者のデイリーの3条件でありますが、これは、まず循環型資源は収穫の一定量を保つように、乱獲を制限しなければならないというのが第1条ですね。しかし、実際にこれは必ずしもそのとおりには守ることができません。もしデイリーの条件のとおりだとすれば、常に循環型資源の収穫量は一定であるということになるわけですが、そうもいきませんで、実際には一時的に再生可能な限界に近づく危険な状態があったとしても、長期的には収穫は一定に向かっていくという、そういうことしかできない。それからまた、一旦絶滅した生物種の再生は事実上は不可能でありまして、したがって生物種については絶滅ゼロを目標とするという、こういうことがデイリーの第1条に対する現実的な対応ではないかと思います。
 デイリーの2条は、枯渇型資源については再生可能な資源で埋め合わせながら使っていきなさいという、そういう条件なんですが、これはとても今、実行が不可能で、例えば石油を1リットル使うたびごとに、それに見合うだけの樹木を植えなさいと言っても、とても間に合わないようなぐあいで、実際に枯渇に向かうような形で化石燃料が消費されていると思います。デイリーの要求それ自身は、燃料だけではなくて鉱石も含めて化石資源の自然備蓄が一定であるように、使った分は必ず何かで穴埋めするようにというんですから、自然備蓄の一定ということを要求しているのだと思います。
 それから、枯渇型資源について、実際にどういうことができるかといえば、自然全体、地球全体のエネルギー備蓄を歴史的な規模で一定に保つなんていうことはもう既にできていないわけで、結局、一時的には自然全体のエネルギー備蓄を減少させる結果になるけれども、ある一定の時期から、産業の維持に必要なエネルギー資源を循環型資源に転換するということだと思います。
 それで、このデイリーの枯渇型資源についての考え方で、循環型資源で同じ量だけ備蓄をして埋め合わせていくということが書いてあるんですが、エネルギー資源については、本質的に生産可能ですけれども、金属資源を、じゃあ一体どうして使った分だけ埋め合わせするかなんていうことは、とても答えが出ないわけでありますから、これはデイリーに対して、金属資源については本質的に転換は不可能だから、循環的な使用をするというふうにちょっと変えてもらわないと、デイリーの条件そのままではいかないのではないかと思います。
 劣等生のシナリオと書いたのは、デイリーの場合には、産業社会が初めからずっと一定の清潔の水準を保ったり、資源の備蓄をずっと一定に保つというイメージなので、人類は実際には相当ひどいことまでやって、途中から改心して立ち直っていくだろうという、そういう一時期ひどいことまでやっているというのが今の時期ではないかと思うわけですね。
 そして、汚染と浄化速度については、汚染物質が自然浄化されるスピード以上に汚染物質を排出してはならないというんですから、地球の清潔度が一定というのがデイリーの3番目の条件だというふうに言えると思います。これも、初めからずっと清潔度が一定で、一度もはみ出して汚したりしないということはできませんので、我々人類が実際にできることというのは、地球全体の汚染度は歴史的な規模では増大させる結果になるけれども、生物の健康が維持される限度にとどめて、それ以後の産業の維持に必要な廃棄物は累積を回避するようにするというのが実際にできることであって、デイリーの言うとおりにはならないけれども、最終的にはデイリーの3条件に近いものを守っていくということが、産業社会の持続可能性を保っていく理由なのではないかと思うわけです。
 それと、結局持続可能性とは何かといえば、枯渇型資源への依存から脱却するということ。そしてエネルギーは再生型資源へ、金属は循環型使用へ、そして廃棄物が累積することを回避し、生物種の絶滅を回避する。これが守られれば、一応一時的にひどいことになっても、結局人類は産業文化というものを維持できるのではないかと思うわけです。
 それで、以前に安井至さんなんかが書いた本を見ると、エネルギーの資源よりも金属の資源の枯渇の方が歴史的に先にやってくるという予測がありましたが、この間安井さんに会ったら「そんなことを書いたか」と言うから、書いてあると言ったんですけれども、ちょっとその辺は私はよくわかりません。ただ、こういう問題に対してよく、ほうっておけば結局もとどおりになるんじゃないか。だから、余り人為的にいじくり回すよりは、ほうっておけば解決するという自然解決というものをねらった方がいいという、そういう説があって、確かに食料危機だって、地球上の人口が半分に減れば自然に解決すると言って言えないことはないわけでありますけれども、江戸時代の思想家で熊沢蕃山という人の述べた言葉は、こういう点で大変参考になると思いますので、私はできたらこの言葉を学校の教科書に載せてもらいたいと思っているんです。
 「山川は国の本なり。近年、山荒れ、川浅くなれり。これ国の大荒なり。昔よりかくのごとくなれば、乱世となり、百年も二百年も戦国にて人多く死し、その上、軍兵の扶持米難儀すれば、奢るべき力もなく、材木、薪をとること格別少なく、堂寺を作ることもならざる間に、山々もとのごとく茂り、川々深くなるといへり」。本当の趣旨はよくわからないんですが、江戸時代の人が200年も戦国が続いたというのはどういう意味で言っているのか、ちょっと具体的な例はわかりませんけれども、乱世となれば、結局兵隊のお米が足りなくなったり、「堂寺を作ることもならざる」と書いてあります。熊沢蕃山は、お寺の建設による山林の破壊というのが、日本の山林破壊の中で非常に大きな原因になっていて、お寺の坊さんに対する悪口を何度も述べていて、お寺をつくるために山林を削るからだということを何度も言っております。そして、この熊沢蕃山の思想は、江戸幕府の森林保護政策に大きな影響を与えたと思われるわけであります。そして、彼が最終的に言いたいことというのは、「乱世をまたず、政にて山茂り川深くなることあらんか」というので、確かに放置すれば自然解決はあり得るかもしれないけれども、そうではなくて、政治的に指導性の高い政策をとることによって、山茂り川深くということをねらうべきだというふうに彼は言っているわけでありまして、この言葉は非常に深い意味を持っているのではないかと思うわけです。
 そして、実際問題として、じゃあ、我々がどういうふうな社会体制の変革というのを見込むかといえば、結局は、今の状態でいくならば、補完的循環経済から完全循環経済へというふうに書きましたけれども、補完的循環経済というのは、生産・供給・流通という動脈の流れと回収・再利用化・廃棄という静脈の流れとが別々の企業体によって維持され、全体として補完的な構造になっているような循環経済。そして、完全循環経済というのは、生産・供給者は、流通と消費の過程を経てきた生産物を回収し、再利用化・廃棄する責任を負う。動脈の流れと静脈の流れが同一の企業体によって維持され、クローズドサーキットの構造になっているというのが完全循環経済ではないかと思うわけです。それを支える法律上の概念が拡大された製造者責任であり、そしてまた、物流の領域で語られているサプライチェーン・マネジメントというものが、あらゆる領域で適用されていくならば、完全循環経済というものになっていくかもしれない。こんなふうに考えるわけです。
 こういうものができ上がるとしても、一体そのときに経済学というのは欲望の拡大を抑えるようなことに貢献するのか。あるいはまた、欲望の拡大ということを経済学は説明できるのかということですね。だから、経済学がこういうときに、大きく言えば何らかの形で欲望を制限するという政策をこれからどこかで対応せざるを得ないのではないかと思うんですけれども、どうすれば制限ができるのかということが問題ですが、その前に、なぜ欲望は必要以上にまで拡大していったのかということが問題だと思うわけです。
 これは、一つの説明は、自由主義市場というのは格差を常に拡大して、現在よりも高い生活水準が目の前にあり、枯渇感、焦燥感というものを生み出していく。進歩というのは、配分問題を回避するところにメリットがあって、すべての資源が有限であり、その中で取り合いをすれば厳しい競争になりますけれども、あしたになればパイ全体がもっと大きくなるから、相対的にはともかく、全体的にはおまえの取り分は大きくなるという、そういう説明が人々に信じられることによって、結局パイ全体、つまり物質やエネルギーの投下する資源の総量というものを大きくするような形でしか社会不安を取り除くことができないという体質を我々の社会が持っていたのではないかという、こういう理論であります。こういうものを説明するのにいろいろなものがありますけれども、何といっても最も代表的なのは、ヴェブレンという経済学者が考えた「有閑階級の理論」で、これは今より大分前の理論ですから、生活のイメージというものも、何か上流階級、中流階級、下層階級というのが非常に明確な違いがあって、上流階級の生み出す過剰な顕示的な消費が下層階級にまで影響を持つというふうに聞こえて、そんなふうなイメージで書かれているわけですけれども、現在ではもっとこれが流動的になっているのではないかと思います。そして、あらゆる社会階層が誇示的な消費、あるいは顕示的な消費をしないと不安から解消されないという、そういう社会不安が常につくり出されていくというところが欲望の拡大の原因なのではないかという、そういうところに着目したという点で、ヴェブレンという人の思想は今日でも再評価されてきていると思います。
 それで、最近で有名なのはガルブレイスの「ゆたかな社会」でありまして、この「ゆたか」という言葉はリッチではなくてアフルエントという言葉ですから、あふれ返るほどの豊かさというか、余計な分まで豊かだというイメージがガルブレイスの「ゆたかな」という、アフルエントという言葉の中にあるかと思います。ただ、ガルブレイスの思想というのは、自分の思想を述べるというよりは、欲望の無限を説明するのに、いわゆる伝統的な経済学者はちゃんとした道具を持っていないという、何か同業者を批判するという文体がガルブレイスの中に多くて、ガルブレイス自身の主張をしっかり取り出すのがちょっと難しかったんですけれども、消費者というのは、常に多様さを求め、そして消費者が新しいものに対する欲望を次から次へと広げていくというのは、ガルブレイスのこの文章の前後では、いわゆる限界効用説では説明がつかないので、だから、限界効用説というのは実際の社会の欲望の拡大を説明するのに不十分だという、そういう批判をしているように思われます。
 そして、もっと簡単に、ケインズの言葉ですと「人類の必要には二つの種類がある。他人がどうあろうと自分はそれがほしいという絶対的な必要と、それを満足させれば他人よりも偉くなった気がするという意味で相対的な必要との二つである」。かえってこのケインズの言葉の方がわかりやすくて、難しいヴェブレンの言葉などを引用するよりは、これで間に合うんじゃないかという気もするわけです。
 それで、これは長期にわたる人類のエネルギー消費の量と、それから発明、発見などの説明なんでありますけれども、第二次大戦以後、急にエネルギー消費がふえたというのを見ると、何かやはり戦争をやっている方が人間は賢くて、戦争をやっているときの方がエネルギー消費を少なく済ませていて、戦後になるとみんなわけもわからずめちゃくちゃに消費量をふやしていって、平和だとか自由だとかを謳歌したとかなんとか言うけれども、平和とか自由の謳歌というよりは、余り意味のない大量消費をやったということにすぎないのではないか。一体自由とか平和って何の意味があるのかと言えば、ばかげた大量消費にすぎなかったと、そういう印象もこれによって与えられるわけです。
 これをつくった人は私の友達の川宮さんという人なんですけれども、川宮さんの言いたかったことは、実はこの戦後の大量消費、高度成長の時代の発見が戦時中になされたものが多くて、戦後のプロパーの発見よりも戦時中の発見の方が貢献度が高い。したがって、これから先、もっと同じように発展するかどうかはわからないという、そういうことを言いたかったのかもしれませんが、こういう時代になりますというと、例えば1900年から1940年までの、これは人口そのものが増えていますから、1人当たりのエネルギー消費ではないわけですけれども、エネルギー消費がもっとずっと少なかった時代と比べて、エネルギー消費の大きかった時代がそれだけ多く豊かであるというふうに言えるのかどうかということは、随分疑問になってくると思うんです。そして、現在、例えば1990年代のエネルギー消費から60%減らすとなると、1960年代の消費水準に下げるということになるかもしれませんけれども、うまくやれば、60年代まで下げても生活の質そのものは下がらない可能性というのは、先ほどの小宮山先生の発表などを聞くと、そんなに下げなくても大丈夫なんだという安心感もあるわけですね。
 ただ、そういうことを導いていこうとする場合に、どうしても必要なのは、これは生活に必要な支出であるからどんどん支出してください、これは生活に必要でないものだからちょっと抑えてくださいという、必需品とぜいたく品の区別というものをせざるを得ないのではないかと思うんですけれども、これはガルブレイスの引用です。「経済学は財貨に関するものだが、その財貨について判断を下す権利はない。財貨が必要なものか不必要なものか、重要なものか重要でないか、というようなことは、経済学の領域には入らない。いっそう多くの食料がほしいという欲望は正しく、もっと高価な自動車がほしいという欲望は軽薄である、というようなことをいいたくなる人は、経済学の訓練が全然なっていないとされてしまう」というふうに書いてあります。これは経済学説史の中ではマーシャルによって導入された考え方であって、そして、確かに古い経済学の本を読みますと、必需品とぜいたく品の区別というようなことが言われていたわけでありますけれども、マーシャル以後、こういうことを言うと、「おまえは経済学のいろはのいもわかっていないんだから、勉強のし直しをしなさい」というふうに言われかねないということが書いてあります。
 経済学者は必需品とぜいたく品の区別ができないという立場に立っているんだとすると、これから大量のエネルギー消費を抑えて炭素の使用を少なくするというようなことをやる場合の尺度は、経済学者は相談に乗ってくれないのかどうかということですけれども、どうしてもこのままでは済まないのであって、何とか経済学者にも協力してもらって、どういう需要を抑えて、どういう需要を抑えないのかということの区別を、建前と、単に一般的にすべての需要を縮めるという政策をとれば、非常に大きな批判と憤慨、あるいは困った人々を生み出すことになるのではないかと思うわけです。
 例えば、ブレア首相が3月13日に、90年基準ですけれども、50年までに60%削減するという法案を出したというので、これは可決されたかどうか、まだ確かめていないんですけれども、イギリスの英語の新聞を見たら、炭素カードを配って割り当てを超えると電気が消えちゃうとか、おもしろいのは、何かトイレの水を2つに分けるとか、トイレの出口も2つに分ける。大小別々にしか回収しないようなトイレをつくるとか、いろいろ記事が載っていましたけれども、多分相当冷やかし半分の記事もあったのかもしれません。それから、外国旅行を禁止するとか、そんなふうな記事が出ていましたけれども、こういう戦時統制経済のイメージというものが本当にこれから進むのかどうかということですね。
 人間は限りなく欲望を増やしていくんだというのに対して、いや、違うという考え方も確かにありまして、最近では加島祥造さんの「求めない」という1,300円の詩集ですが、全部読んでみたんですけれども、ここに今引用した部分を読むと、あとのページは全部同じ趣旨であるから、文学的にはともかく、理論的には、このページを読めば、あとは要らない。だから、むだなものを全部省くというのが正しい趣旨であるとするならば、加島祥造さんはこのページだけ刷って1,300円で売るべきであったというふうに私は思うわけですね。つまり、頭の中で求めると求め過ぎる、体が求めるものを頭は押しのけて別のものを求める。しまいに余計なものまで求める。実はそれだけで、僕が「求めない」というのは、求めないで済むことは求めないということなんだというふうに言っています。
 これより前に、中野孝次さんという人の「清貧の思想」というのが大変有名になって、ベストセラーにもなりました。これは、主として日本の文学者が清貧というものを表現したすぐれた文学をたくさん残しているので、そうしたものを一つ一つ再評価していくという、そういうことを語った本でありますけれども、おしまいの方に、結局、本当に欲しいものではなくて、欲しくもないものを売りつけられているのが今の自分たちなのだということを書いてあります。これは一つの文学の研究書として非常にすぐれたもので、恐らく今後もこの中野さんの本は再評価を何度も何度も受けるんじゃないかと思うんですね。
 ただ、内容的には、これは1895年に出たヴァグネルという人の本なんですけれども、簡素な生活をしたいと。それから田舎のお祭りなんていうのがどれほど楽しいかという、そういうふうなことが書いてありまして、物を使うということだけではなくて、例えばわかりやすい言葉を使うとか、それから目先の変化を求めるなとか、そういったふうな生活のよさというものを語った文学はたくさんあるわけです。
 私は、日本人の知的成果としては、柳宗悦の「健康な美しさ」という言葉は大変有名で、これは民芸というものを言い続けたことで有名でありますけれども、文章としては非常にすぐれていて、また、柳さんの息子さんがデザインの指導をやって、実際つくったものを見ると、ちょっと単純過ぎるんじゃないかと私は前に思ったことがあるんですけれども、お父さんの言葉を見ると、単純なものが一番美しいんだと書いてあるので、あそこまで単純にするのかというぐらい、柳宗理さんのデザインなんていうのが生まれていったわけですね。
 清貧論のわなというのは、ここに書いたんですけれども、どうも清貧というと、精神の美しさと物質の貧しさがうまく一致しているということなんですけれども、ヨーロッパではセネカ、ストアの哲学者が有名で、セネカは、快楽の追求がどれほど愚かしいかという話をしていますけれども、セネカの書いたものを読んでいますと、すごくいい別荘があって、それで使用人もたくさんいて、食い物もいいものをいっぱい食っていて、普通の水準からいうとローマ時代の平均水準のトップクラスから5%ぐらいのすごい生活をしていて、それで「快楽の追求はむなしい」という文章を延々と書いているわけですね。だから、実際に富を持って清らかな人もいるし、貧しくていやしい人もいるわけで、必ずしも清なれば貧というふうに、清と貧というのは必ずしも結びついているわけではない。
 それから、清貧論を書いた人って、大体年をとってから書いていまして、若いときにさんざん悪いことをやって放蕩までしたくせに、年をとってから清貧論を書くというのもよくあることなのでありまして、中身は、物の豊かさが精神の貧しさを引き起こす。物の所有を豊かにすると精神の豊かさを犠牲にせざるを得ないから、快楽や名声や金銭を求めれば精神の自立性、静けさ、余暇を失い、結局は自己を失うというようなことが非常に説得力のある文章で書かれております。
 私は、いろいろな文章を読んで、大体清貧論の中身というのを4つぐらいに絞ってみたんですけれども、まず、権力に屈伏しない。独立不羈である。それから、内面的な価値の純粋さ。これは自分の心の中に実現されているもので、ここに私が書いた文章で、永遠に達成不可能な価値ではなくて、清貧に生きる人の生き方の中に内面的な価値が現実化されている。こういうところが、いわゆるキリスト教思想や何かですと、永遠に達成不可能な価値に限りなく近づいていくことという、そういう価値の追求のスタイルがあるんですけれども、清貧論の場合には、それなりに自分で実現しているという面があるかと思います。それから、貧しい生活の中で高度の自己充足があるというので、良寛なんかも典型的ですが、幕末の橘曙覧という人が、子供を愛して清貧のすばらしい作品を残したというけれども、この人は12人子供がいたので清貧にならざるを得なかったので、別に自分から清貧を選んだわけじゃないんじゃないかという、そういう嫌みもちょっと言いたくなります。それから、やはり日常生活の中で、とにかく悠久感といいましょうか、ゆったりと大きいものを感じ取るというようなことが清貧論の中身で、結局、清貧論というのは、そこに自分の力でもって到達するというところに大きな意味があって、旗を振ってみんなに宣伝して、おまえも清貧だ、おまえ、清貧にしないとだめだぞと言って押しつけるようなものではない。だから、清貧の中で一番重要なのは、それを自分で引き受け、自分でつくり上げていくということにあるので、清貧論を強制するということは、雪の結晶を温かい手でとらえるようなもので、政治の手でいじくり回せば、それはだめになってしまうということですね。
 そこで、清貧というものをもうちょっと違う角度から見直して、私たちの生活の中でそのよさを取り入れるにはどうしたらいいかということですね。例えばこんな例を考えてみました。家の耐用年数の話なんですけれども、ここでは除却年数。同年度の資産台帳に記載された住宅の半数が取り壊される年数というのが、アメリカで100年、日本で40年。それから住宅の代がわり周期。全住宅戸数を年間建設戸数で割った数字が、イギリスが141年。だから、すべての住宅が全部建て直しするのにイギリスだと140年以上かかるんだけれども、日本だと30年でもって住宅が全部建て直しになってしまう。これはミサワホームの社長さんから聞いたんですけれども、それが一番個人的には経済的ですよとおっしゃっていました。でも、ミサワさんは後で百年住宅というのを設計して、それで何か会社が傾いちゃったという話を聞きましたけれども、社長さんのおっしゃる言葉は本当なんじゃないかと思うんです。
 例えば、木造建築の数だとか年数だとかを調べてみると、日本というのは非常に貧しい国で、あるときイギリスの友達が京都の南禅寺へ来たので、南禅寺に連れていったら、彼は感動して「うわあ、すばらしい。自分は今まで木造建築というものの評価を間違っていた」と。「ところで、この建物はいつできた」と言うから「1428年だ」と私は得意になって言ったら、さらに彼は驚いて「うわあ」と感心するので、「どうして」と聞いたら「僕のうちと同じだから」と答えたんですよね。イギリスですと、古い町でそのぐらいの建物はざらにあると言うとちょっと言い過ぎですけれども、まあ、ちょっと趣味の変わった人はそのぐらいの古いところに住んでいるわけですね。こういうふうに、日本の文化というものは非常に変わりやすくて、耐用年数の短い文化というのを今まで維持してきていて、それをもうちょっと耐用年数の長い文化に変えていく必要があるのではないか。
 そして、特に環境という問題を考えると、世代間関係の充実ということなんですが、環境倫理学という書物を私が書いて、その中で世代間倫理ということを主張したわけです。現在の世代は、未来の世代がちゃんと生きていけるように生活水準の保証をする責任がある。未来の世代のことを考えないで全部石油を燃やせばいいとか、石油がなくなったらメタンハイドレートで地球上の燃料は全部燃やしちゃってもいいとか、そういうことを考えて未来の世代をがけっぷちの外まで追い詰めるような、そういうことをやっちゃいけないということを書いたんですけれども、これはヨーロッパ人にもそういうことを言う人がいて、そういうのを利用して書きました。アメリカやヨーロッパでは世代間倫理というのはそんなに普及しなかったのに、日本では、世代間倫理という言葉を使った途端に、ぱっと多くの人が引用してくれまして、大変早目に理解してくださいました。そして、例えば親から子供へ家を伝えていくだとか、土地を伝えていくだとか、昔ですとお母さんの使った和服を娘が着て、少しずつ直して、事実上無限に長い耐用年数を和服は経験していくわけですね。そういう親子関係、あるいは親、孫の関係で世代間関係というものがもっと充実して、しっかりとした感覚、いわばかつての大家族主義の時代の持っていたようなものを復活させるということが可能になるとするならば、確かに未来世代のために、今自分たちがこれだけの犠牲を引き受けなければならないんだということをみんなが納得するようになると思うんですね。それに対して、未来世代に対する責任という感覚がなくなってしまうと、一体何のためにこんな無理してエネルギー消費を節約しなければならないんだ、そんなばかを言ってくれるなという気分になるのではないかと思います。
 それから、自然に対する愛ということで、レイチェル・カーソンのセンス・オブ・ワンダーという言葉を引用しましたけれども、大体今、環境教育でやっているのは、林間学校をもっと充実したいという運動で、環境教育というと、大体田んぼの学校だとか林間学校だとか、そういうのを専門家が言いますけれども、私が提案しているのは、日本中で絶滅危惧品種と呼ばれている動物や植物がありますよね。小学校や中学校の子供たちがみんなそういう品種の飼育の責任者になって、一つ一つの学校には必ず一つ一つの絶滅危惧を育てるグループがあるというようなことをすると、一体どうしてこういう生物たちは絶滅という危険に追いやられたのかということを理解するのではないか。だから、絶滅危惧品種の飼育というのを、実はこれは環境省がお金を出して支援しているところが幾つかあるわけですけれども、日本中のレッドデータブックを見ると、かなりもっともっと学校に飼育係をつくる余地は相当ありそうなんですけれども、まだまだ普及していない。そんなことも非常に重要ではないかと思います。ドイツでは、学校の自然教育というと、学校そのものに自然環境をもっと豊かに取り戻すということも入っていると思います。
 そして、簡素な生活こそ豊かにするということで、簡素な生活の豊かさを支えていく。これは、私はぜいたくすると損をするというようなシステムをたくさんつくってもらいたいと思うんですね。実質的には必需品とぜいたく品を分けて、必需品の価格を安くする。日本では、例えば公共交通の利用度というのが世界的に見て高いレベルだそうですけれども、これをもっと高くする余地があるとするならば、もっと高くしてもいい。それから、自転車で電車に乗れるというのは、ドイツにいるときは料金を払うと列車の中に自転車を持ち込んでもいいというのがあって、大した額じゃなくて何百円かだと思いますけれども、たしかあのとき、昔で2マルクだったと思うんです。そうすると、電車をおりてまた自転車に乗って旅行してというようなことがあって、日本で何でできないかと考えると、実はいろいろな障害があって、ドイツの電車ってほとんど地面の上を走っているのに、日本の電車ってやたらに高いところがあって、駅が何か高層のところがあったりして、確かに日本では難しいなという面もあるかなと思いましたけれども、でも、簡素な生活こそ豊かにする。何か生活全体を豊かにするというと、結局豊かな人と貧しい人のギャップが大きくなって全体としては豊かになったというのではなくて、簡素な生活をすることこそ本当の豊かさだという、そういうふうな生活形態をつくり上げるような誘導というのが必要なのではないかと思います。
 それから、環境負荷の情報を得やすくするというんですけれども、これは別にドイツ人がすぐれているとは思わないんです。これはドイツの駅で買ったんですが、余りすぐれた本かどうかはわからないんですけれども、ともかく微に入り細をうがっていて、自動車についてもあらゆる車種が書いてあります。それから、洗濯機の選び方なんていうのも全部、どの洗濯機を選ぶと洗濯物1キログラムについて何グラムの炭酸ガスが節約できるかというので、最終的に全部CO2のグラム数で比較した数字が書いてあって、日本でもいろいろパンフレットをもらったりして、1人1日1キログラム削減しなさいなんていうのがあるんですけれども、何をすると45グラム減るのか、何をすると100グラム減るのかという、その選択肢の資料が余り与えられていない。これは与えられていて、ただ、どういう計算をしたのかわからないから、これを全部丸ごと信用しないといけないというのも随分危ない話で、全部読むと、実はどこかの会社の応援演説をやっているんじゃないかとか、いろいろまだ不安もあるんですけれども、ともかくこういう非常にわかりやすい、何をすると何グラムのCO2が節約できるかという、何グラムというレベルで書いてくれるような、そういう材料が必要なのではないかと思います。これは、絵を見ますと、電気と交通と消費と、それから暖房と書いてありまして、暖房といっても部屋の暖房と、それから洗濯機の温度の調節だとか、あらゆる温めるということですけれども、日常生活の中で出会う選択肢についてかなり充実したデータが載っています。
 まとめとして言いますと、清貧というのは強制できないもので、結局簡素に生きることこそ充実した生き方だということを、精神論ではなくて利益誘導で促すということしかできないだろう。それから、簡素なものほど高級だが低価格であるという、そういうふうな価格誘導をしてもらいたい。それから、環境負荷を少なくする誘導には、実際には強制も含まれると思います。環境負荷の情報を豊かにすることで、強制の納得度というのを高めていくことが必要ではないかと思います。ドイツのことを調べたときには景観保護法というのがありまして、ドイツではノルトファーレン、ウエストファリアでしたっけ、その州の法律が一番厳しいというので読んでみたんですが、ともかく土地の利用度なんかについて住民に対してある強制的な措置をとるんですけれども、非常に納得のいくようなことをいろいろ手口を考えて、結局あなたの土地の価格はこれで上がるんですよとか、いろいろなことを考えて、一方では強制なんだけれども、実質的な利益誘導という説得材料を非常に豊かに使っているという印象がありましたので、強制も含まれるけれども、情報を豊かにして説得力を高めるということが必要なのではないかと思いました。
 以上です。

○鈴木部会長 大変おもしろく、またいろいろと考えさせられることをお話しいただいたと思いますが、ご質問、あるいはご意見、おありの方は名札を立てていただきたいと思います。
 3人の方でよろしいでしょうか。それでは、鹿島委員から回りましょうか。住委員、そして永里委員。

○鹿島委員 大変含蓄の深い話をお伺いできました。ありがとうございます。2点ほどお伺いしたいと思います。
 1点は、ちょっと順番が逆になったらすみません。ちょっと違うことを申し上げますけれどもお許しください。
 1つは、私は計画ということを専攻しておりまして、計画というのは、先生のさっきのいろいろなエネルギーを使い始めた図でいきますと、多分そんなに古い時代ではなくて、多分1900年とか、あるいは1950年とかという、そのぐらいから計画というのは一般的になり始めた。これは多分株式会社で資金をたくさん集めるということと同じように、人間の知恵を集めるための一つの工夫じゃないかと、こういうふうに考えているんですけれども、計画というものに対する何か考え方というのが、もし先生の中で、私の認識なんかがおかしいということであれば教えていただきたい。
 なぜかというと、多分グローバル化の中で、国とか、我々のような国民とか、あるいは企業とかというものの役割が変わりつつあるときに、政府がどういうふうな組み合わせを考えていくかというときに、計画というのは非常に重要になるんじゃないか。その重心の置き方というのは大切なんじゃないかと、こう考えておりまして、そういうときに計画というのをそんなに信じていいものか。私はそういうところにいますので、ついつい信じたくなるんですけれども、信じていいものやらどうやらというところが1つお伺いしたいことです。
 それから、2点目は、先ほど住宅を例にお話しになられたことになるんですが、都市を考えるときに、いつも反都市、要するに農村派と都市派が競っていて、結局19世紀の終わりから20世紀にかけては都市派が勝ったといいますか、コルビュジェを中心とするようなグループが勝ってきて、その中で郊外のニュータウンが生まれて、特に日本の場合には戦争で少なくなった住宅を供給するために非常に重要になってきた。ところが、そういうことをしたために、年間100万戸とか百数十万戸つくらないと、産業が、その分野がもたないようなものになってきてしまっている。ところが、それを十分うまく転換できず、ずっと引きずってきたがゆえに、さっき先生のおっしゃったような、30年という非常に短いサイクルでしか物をしていかざるを得ない、そういう社会構造をつくった。これからが質問なんですが、先生のような立場からいくと、そういう産業構造をこういう時代でさえもいじくっていいというふうにお考えになるんでしょうか。それとも、やはりそこのところは市場メカニズムに任せて、先生がおっしゃったような、そこにあるような簡素なものが高級だとか、必要なものは何とかだと、こういうようなところに任せておくべきだというふうにお考えでしょうか。その辺についてご意見をお伺いできたらというふうに思います。
 以上でございます。

○鈴木部会長 住委員。

○住委員 少し倫理観の形成とかの問題でお伺いしたいんですが、先ほど、清貧というのは強制できないと言われましたけれども、じゃ、倫理観というのがどうやって人の中に形成されるのかという問題があると思うんですね。それで、どうも見ますと、倫理観というのは、結局しつけとか、まさに何らかで子供に強制しない限りつかないんではないか。全くほうっておいて勝手にやって、好き勝手やって、年をとったときに「ああ、そうだったな」というのは、それは多分そうだと思うんですね。皆さん、若いころに好き勝手やって、年をとって反省する。そうではないと思いまして、どうやって今の社会の中で、そういう倫理観を伝えていくか。ともすれば日本は、そういう観点で考えますと、戦前の農村共同体なり封建的な部分が崩壊した後に、何らかのそういうモデルは、結局欧米型の物質的な欲に行くということでみんなが手を打ったみたいな形があるような気がするんです。それをちょっと変えると、今度はすぐ保守反動とは言いませんけれども、そういうタイプにすぐ行くとか、何かそういう点で、どういうふうに未来に向けて、ある種のそういう倫理観なり何かを社会的に伝えていくかという問題に関して、先生のご意見をお伺いしたいと思います。

○鈴木部会長 永里委員。

○永里委員 ありがとうございます。実は、今のお2人とほとんどと同じなんですけれども、まとめに関して、「清貧は強制できない」。それから、もう一つ下の方に書いてある「環境負荷を少なくする誘導には強制も含まれる。環境負荷の情報をゆたかに」。こういうまとめの中で、非常に身近な例として先生のご意見を聞きたいんですが、利便性を追求しまして、そこに需要もあるものですから、今やコンビニとかファストフードというものが24時間営業しております。これでエネルギーを消費するので、炭酸ガスは出ますし、それから犯罪も誘発しております。このことについて、私の意見はCO2削減のために3分の1ぐらいの深夜営業にして、利便性もある程度必要かなと思っているんですけれども、ライフスタイルの変更を迫るために、わざとわかりやすく3分の2ぐらい減らすような考え方もあると思うんですが、先生のご意見をお聞きしたいと思います。

○鈴木部会長 では先生、お願いいたします。

○加藤尚武 まず、計画ということです。私、本職は哲学者で、私が書いたものの中で一番力作というか、一生懸命やった仕事はヘーゲルの自然哲学の翻訳なんですけれども、およそ私、会って、だれも「読みました」という人に一人も会ったことがないので、恐らく全然読まれていないんじゃないかと思います。19世紀の自然思想というものをある形で集めたものですね。大体そのころのものを見ていますと、統計という概念がはっきりしないので、例えばマルサスの人口論なんかでも、総人口というのはそもそも確定できるのかどうか。総人口が同じ年に確定できるだとか、最近では総人口を同じ日に確定できるという、世界総人口をサービスをしているアメリカのワールド・ポピュレーション・クロックなんていうのを見ると、推定値もあるんでしょうけれども、世界総人口を毎日あらわすという、そういうことがなされているわけで、恐らくヘーゲルの時代ですと、ドイツの総人口を調べろといったならば、恐らくそれ自体が10年ぐらいかかっちゃっている。だから、総人口を調べたときには、もうそのデータは過去のものになっているという、そういうことにしかならなかったと思いますし、ヘーゲルの時代には度量衡だとか貨幣なんかもドイツ全体で統一しておりませんで、貨幣が地域によって違っているというのは、社会生活を営む上で物すごく不便だったわけですけれども、そういうふうな状況でした。
 それが今、例えば人工衛星のデータなどを使いますというと、データの同時性ということが常に可能であるような、そういう時期になって、それで、昔ですと計画ということはそもそもできない。してもほとんど意味がない。それは頭の中の空論だという時代がずっとあって、そのために、人類は計画の文化というものをそんなにしっかりと確立してきたわけではなくて、アリストテレスを見ても、都市計画なんていうのは全然出てこないんですよね。都市計画なんかが出てくる最初の文学は、たぶんゲーテの「ファウスト」だと思いますが、あの中には都市計画だとか国家計画だとか、そういうのが出てきますけれども、それは全部一種のファンタジーみたいなものでもってでき上がっています。
 しかし、都市そのものは非常にヨーロッパ人は計画的につくっていましたので、大体ヨーロッパの都市の環境についての浄化計画なんていうのは、17世紀ごろにさまざまなものがつくられています。そのときには、都市の空気を汚染するとペストがはやるという間違った空気汚染説があったために、都市の中に常に新しい空気を導入するように道路や川や何かを整備し、空気を遮るものを除いて、広場に空気がちゃんと集まるように設計するというのが大体17世紀です。そして、19世紀に病原体説ができ上がった後でも都市計画そのものはずっと継続されて、それで大体20世紀の初頭にもう一遍都市計画像というものが再確認されるというようなことがあって、やはり大量の人が住む空間というものについては、ある一定の計画でもって安全や健康を保持しなければならないという思想が、ヨーロッパの場合にはかなりずっと綿々と、その伝統がつながってきているのではないかと思います。日本の都市のように、もうでき上がっちゃったからどうしようもないじゃないかと、これで何とかしてくれと言われても、もう今さらどうしようもないというぐらい無計画につくられてしまっているところをどうするかというのは、ちょっとヨーロッパ型でいうとほとんど考えられないという気がします。
 都市と農村の問題について言うと、これから先どうなるのか私はわかりませんけれども、こんなに急いで都市化して、しかも安物の不燃化というのをやったというのは、やはり失敗だったのではないかと思うし、もうちょっとゆったりとした感じの農村に、お互いの関係をうまく使い分けていくような開発計画が必要で、今の日本の都市みたいにアナーキーに、何の計画もなしに収容人口だけを増加させてきたというようなやり方は、これからはとらない方がいいのではないかというふうに私は思っています。
 それで、永里先生のコンビニの営業時間の話ですけれども、これはかなりはっきりとした合理的な根拠があれば規制してもいいんじゃないかなと私は思うんです。ただ、コンビニというのが、いろいろおもしろい流通の仕組みをつくってきたので、コンビニに対しては、何かむしろおもしろいなという感じがしているわけですけれども、でも、例えばたばこの自動販売機のエネルギー消費だとか、エネルギー消費の中で明らかに不合理な、過剰なものというのが相当たくさんあると思うし、たばこの自動販売機のように、それによる青少年のたばこの悪用だとか、いろいろなことを考えると、それを規制する可能性ってあると思うんですね。ただ、今まで西欧社会が個人の生活について規制を加えるときというのは、必ず他者危害原則といって、そのある個人の行為が他人に対して危害を加える可能性のある場合に限るという原則が19世紀に提案されて、20世紀の初頭のアメリカで確認されたわけですね。ところが、今、環境の問題で、特に全エネルギーの消費を減らさなければならないというようなことになると、他者危害原則だけで公共による個人生活の規制原理というのを維持していくことは、多分できないだろうと思うんです。ただ、私は生命倫理をやっていますけれども、他者危害原則を外して、何でもいいからあれも規制しろ、これも規制しろと言われると、もう本当にとてつもないことになってしまうんですね。そこで、環境の方面では合理的な個人生活に対する他者危害原則ではない規制根拠というのが、ちゃんと開発可能な余地はあるのではないかというふうに思っています。
 住先生の倫理観の形成という問題なんですが、これは大変大問題で、大体自由主義というのは、私はこういう言い方をしたんですけれども、自由主義は倫理の消費者であって生産者ではない。わかりやすく言うと、キリスト教文化というのは、個人について倫理性を築き上げて、こういう倫理を守らないと救われないぞというおどしやいろいろな仕掛けをつくって育ててきたんですけれども、自由主義というのは、そんなに厳しくしなくてもいいよというので例外条項をいっぱいつくって、密室で見るならばポルノも自由に見なさいというふうな、そういう自由化というのもやってきたわけですけれども、その自由主義の原理そのものの中には、どうやったら人間の倫理性が形成されるかということについての答えがないので、したがって自由主義はだめだという意見が最近ではすごく出てきて、非常に雑な意見では、東洋の社会では子供に倫理の徳目を暗記させているので、アメリカでもそれをやろうじゃないかというので、アメリカではワニのマークのついたおもちゃメーカーがスポンサーになって、子供が暗記するための倫理的な徳目の歌というのをつくってテレビで流したりしたこともあります。
 それで、倫理性はどこで形成されるかといえば、先天的に、遺伝的に既に倫理的であるようにつくられている遺伝子というものも多分あるだろうというように予測していますけれども、大体は幼児期の経験の中で、例えばお母さんから自分が大事に扱われるということは、人間を大事に扱うということの基本的な経験として沈殿し、そして刷り込まれて、そして子供の心の中では思い出として残らないけれども、その子供のいろいろな行為をする際のレディネス、こういうものに対してこういう身構えをしなければならないということが自然にでき上がっていくレディネスを形成していくのではないかと思います。
 現在日本で一番危険なのは、伝統的に培われてきた親から子供へずっと伝えていく、そういう倫理の形成の輪というものが切断されてしまって、もちろんつながっているところもいっぱいあるんですけれども、相当多くのところで、ほとんど倫理性の継承のないような親子関係が、既に3代目、4代目を迎えているというふうに予測される。そういう事例が相当出てきておりますので、私としては、むしろ親子関係、先ほど言ったことで言えば、世代間関係をもっと豊かにしたいというふうに言いましたけれども、そういうことが倫理性の形成にとって有益になると思います。
 ちょっと全然別な話ですが、文部省の基準を見ると、子供にどういうことを教えろという表があるんですよ。よく調べると、困っている人を助けるという項目がないんですよ。そんなばかなと思って私は文句を言って「困っているときに人を助けるというのは当たり前じゃないか。子供に教えるべきだ」と言って、この間論文を書いたんです。広島大学の先生がそれに対してまた反論を書かれて、すんなりと通らないので困っているんですけれども、ともかく、そういう人間として生きる基礎原理というのは、学校に入る前の家庭の中での仕事で、それが断絶しているという危険はかなり今の日本の中にあるのではないかと思います。

○鈴木部会長 何か日本の社会の根本的な問題がいろいろと浮かび上がってくるようなところもあると思うんですが、ほかにご質問の方がおられなければ、ちょうど時間も参りましたが、またぜひ機会がありましたら、いろいろとお話を伺わせていただきたいと思います。
 きょうは加藤先生、ありがとうございました。(拍手)
 それでは、予定の時間となりましたので、事務局の方から。

○市場メカニズム室長 次回の予定でございますけれども、次回、今週木曜日、22日の14時から同じ場所で開催をいたしますので、よろしくお願い申し上げます。
 ありがとうございました。

○鈴木部会長 それでは、本日の議事はこれで終了させていただきます。
 どうもありがとうございました。

午後 4時03分 閉会

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